第7章-③ 聖慮下れり
舞台は再びロンバルディア教国へと戻る。
ランバレネ高原の会戦に先立つ10月31日、オクシアナ合衆国国務副長官であるマーク・ハリスは、約2年ぶりに、ロンバルディア教国の首府であるレユニオンパレスを訪れていた。
彼は以前、オクシアナ合衆国とロンバルディア教国による友好宣言の際、細部の調整やら情報収集やらの目的でこの地に留まり、教国首脳のあいだに人脈を築いた経緯がある。
今回、彼は以前よりもはるかに切迫した状況のなか、極めて重要な案件を携えている。
対オユトルゴイ王国、対イシャーン王戦線への参加要請である。
自国の存亡に関わるだけに、平素は口の軽いハリスも、少しく緊張の面持ちで、王宮の応接室へと入った。大広間での公式の謁見も省略するほどの、火急の用件である。
数分待って、ロンバルディア教国の元首であるエスメラルダ女王と、その腹心とされるエミリア・マルティーニ宮廷顧問官、ヴァネッサ近衛兵団長、文官の首座であるフェレイラ枢密院議長、枢密院副議長と神官長を兼ねるロマン女史、枢密院外務局長のシャンピニョンが現れた。クイーン・エスメラルダは客人を待たせない、というのは、外国使節のあいだでは定評になっている。
「ハリスさん、お久しぶりです。またこうしてお会いできてうれしく思います」
「お言葉、感激でございます陛下。ますますお美しくなられ、まさに神話の女神とも見まごうお姿。拝謁できるは生涯の幸いでございます」
「お世辞の上手さは相変わらずのようですね」
「なんの」
お世辞なことがありますか、とハリスは思い、声にも出した。芸術と言っていいほどの顔の造形から、磨いたように艶のある栗色の髪、輝くような
一通り、挨拶や近況に触れてから、本題へと移った。
ハリスは生来がお調子者で口数が多いが、外交家としての実力と実績は確かである。この年、国務次官から国務副長官に進んで、合衆国の積極的な対外政策のほとんどに彼の意見が投影されているとも言われた。
こと外交に関する限り、合衆国における実力者と見てよい。
「本日は我が国の大統領より、親書を預かってまいりました。何卒お目通しのほどを」
「拝受します」
儀礼として、まずヴァネッサが席を立って受領し、書簡の入った箱を改めた上で、クイーンの前へ置く。
クイーンは神妙な顔色で、ゆっくり噛み締めるように親書へと目を通した。ハリスもさすがに緊張のあまり、顎の筋肉に力が入り、奥歯が痛いほどである。
やがて、クイーンは顔を上げた。常は天使のようなやわらかい微笑を浮かべている口元に、このときばかりは憂色が浮かんでいる。
「お申し越しのこと、よく分かりました。私も、貴国の窮状や、昨年より続くオユトルゴイ王国の外交政策や侵略行為には強く心を痛めていたところです。我が国にも多くの難民が押し寄せて、祖国への侵犯や、占領行政の苛酷さを訴えています。近年は王国からの亡命者も増えていて、圧政の害を被っている民衆は数限りないようです」
「我が国は故国を喪失した旧ブリストル公国の民衆や、侵略の被害をまさに受けつつある同盟の民、そして我が国民の安全を守るために、王国と
「私の一存では決められません。まずは高官とともに熟慮せねば」
当然のことである。先代までに比べ、女王の王権は大幅に強化されたとは言え、外国との全面的な戦争に参加するかどうかの決定を、女王が単独で即断できるわけもない。
今回の親書では、軍事同盟の締結や、救援の要請といった言葉ではなく、戦線への参加を呼び掛けるという立場をとっている。窮地に陥ったからといって、まるで泣きつくような格好で同盟や救援を持ちかけるのは、ブラッドリー大統領や合衆国政府の
だが外交の形式上はともかく、実質は助けを求めているに近い。
そのあたりの事情を
「それでは、すぐに高官と相談してまいります。お待たせしてしまいますが、本日中には回答するようにします」
「本日、回答をいただけるのですか?」
「貴国の状況を思えば、一日たりとも待つ余裕はないでしょう。至急、結論を出しますので、チョコレートでも飲んでお待ちください」
3時間ほどを過ごした。
午後再びの会談の場において、クイーンは合衆国政府の要請を受け入れ、同盟領へと派兵をするむね明言した。
また、その陣容まで決定していた。教国には6つの大きな実戦部隊の集団が存在し、うち半数の3部隊が戦場である同盟領へ向かうという。
しかも、総指揮はクイーンが自らその任にあたると。
「陛下が前線に…?」
ハリスはその言葉の意味を確かに理解するのに、5回ほどのまばたきを必要とした。理解して、彼は急にどもった。
「あぁ、それはその、大変ありがたいことではございますが、しかしよいのですか、国を長期にわたって留守にされるのは。もちろん、我が国としては軍事的天才としても知られる陛下にお出ましいただけるのは幸甚の至りといったところではありますが」
「政策としては、今回の出兵は外交上の安定と平和を守るための手段と理解しています。王国の非道は、これまで我が国としても何度か声明として懸念を述べてきたところでした。故なく公国を征服し、今また同盟を併呑しようとするのは、ただ彼ら自身の野心を満足させるためだけの行いです。そのために無用の戦乱が引き起こされ、
「誠にご立派なお志と」
「そして戦うからには、私自身が必ず戦地に赴きます。私のもとで戦う将軍も兵も、みな私が守らねばなりません。戦火の及ばない宮殿で、変わらぬ暮らしを送りつつ、彼らにだけ危険を強要することは私にはできません」
「実に誇り高く気高いお言葉です。合衆国の軍人も官僚も国民も、そのお志に感銘を受けることでしょう」
同席する教国高官らは、みなクイーンの
ハリスは安堵したが、一点、教国の戦線参加を阻害しかねない重大な不安材料が両国のあいだに横たわっている。
レガリア帝国の存在である。
先年、クイーンが即位した直後に合衆国と教国とが友好宣言を共同で発した際も、その最も大きな動機はレガリア帝国に対する牽制であった。今、クイーンが同盟領に軍を率いて向かうとなれば、陸路では当然、レガリア帝国を通ることになる。ロンバルディア教国はその国土のすべてが大陸南西部のアポロニア半島にあり、その半島部の付け根を抑えているのがレガリア帝国だからである。
この国の動向について予断をもってあたるのは、危険すぎる。レガリア帝国は強力な陸軍国で、その指導者たるヘルムス総統は野心満々、自国の利益のためであれば手段を選ばない奸悪さも持っている。
クイーンが大兵力を率いてその領内を通るとなれば、その軍も留守中の本国も危険は大きい。
クイーンは、自軍と自国民を危険にさらす難しい決断のなか、表情は決して明朗とは言いがたい。ただその沈鬱さのにじむ気配のなかに、神秘的とも言える勇壮さと不屈の精神とが
「レガリア帝国は我が国にとって常に懸念材料ではあります。ただ、先頃は平和的に貿易交渉を進め、二国間条約をまとめることができましたし、移動中の我が軍を襲撃したり、留守中の我が国を侵略するようなことはないだろうと考えています」
「それに彼らが
補足したのは、フェレイラ枢密院議長である。
ハリスにとって、心強いことはこの上ない言葉である。
現在、教国において実戦部隊を掌握しているのは、以下の六名である。
第一師団 デュラン師団長
第二師団 カッサーノ師団長
第三師団 レイナート師団長
第四師団 グティエレス師団長
遊撃旅団 ドン・ジョヴァンニ旅団長
突撃旅団 コクトー旅団長
このうち、クイーンとともに同盟領に向かうのは、カッサーノ将軍の第二師団、レイナート将軍の第三師団、ドン・ジョヴァンニ将軍の遊撃旅団と決まった。各軍は教国各地にて国境警備や訓練、治安維持活動等の任務にあたっているため、それらをかき集めながら、一路同盟領を目指すことになる。
「それでは至急、本国に戻り、この朗報を大統領と前線の軍に伝えます」
「ありがとうございます。よろしくお伝えください」
ハリスは文字通り、飛ぶようにして合衆国領へと舞い戻っていった。
オクシアナ合衆国と、スンダルバンス同盟西部を領有するラドワーン王、そしてロンバルディア教国とを結ぶ盟約は、これらの勢力が南北に連なっていることから、のち南北同盟と呼ばれることになる。
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