第5章-⑥ 天からの光

 クイーンの不予は、言うまでもなくロンバルディア教国政府の最高重要機密であって、エミリア、近衛兵団の最高級幹部、すなわちヴァネッサ兵団長代理とジュリエット副兵団長代理、女官長のマルガリータ、宮廷医長のベルッチがいち早く把握し、彼らは相談の末、枢密院の指導部とも言える三名の大臣と、目下は唯一の女王位継承権者にのみ事実を明かすこととした。

 緊急の召集を受けて、彼らは相次いでレユニオンパレス内の談話室のひとつに集合した。

 集まったのは、枢密院議長のフェレイラ子爵、副議長兼神官長のロマン女史、書記官長のモラレス伯爵、そしてコンスタンサ王女。

 ここで、ヴァネッサから説明があった。

「天然痘だと……」

 フェレイラ議長がうめくように声を絞り出した。沈着無比で知られるロマン女史でさえ、思わず眉をくもらせ、口を両手で覆っている。モラレスは逆に口をあんぐりと開けて放心状態となり、コンスタンサ王女はしばらく目を泳がせていたが、やがてふらふらと足元がおぼつかなくなったので、マルガリータ女官長が椅子に座らせた。

「一体どういうことだ」

 フェレイラ議長の素朴でしかも極めて深刻な問いに、自身も動揺を抑えるのに必死なヴァネッサは回答せねばならない。

 クイーンが天然痘に罹患りかんしたことについては、感染源は分からない。直近で天然痘患者が周囲で発生していないため、恐らく2週間ほど前に訪れた国都近くの難民キャンプではないかと推察される。この難民キャンプは、大陸各地から流れてきた難民や亡命者を保護し、教育や就労などの適切な支援を施し、教国民として取り込む目的でクイーンが即位後に設置を命じたものである。その新設されたキャンプの視察で訪れた先がどうも怪しい。天然痘は、教国内ではここ10年ほど鳴りを潜めていたのである。

 その前は天然痘の流行期があり、ペストと同様、多くの死者を量産し、危険な感染症としてあまねく認知されている。知る者とて少ないが、クイーンの実の両親も天然痘の犠牲となり世を去った。

 天然痘は記録に残る限り、最も古い感染症であって、その致死率は半数程度とされている。つまりかかれば半分は死ぬ。無事に生存できれば二度はかからない。ただ体のあちこちに、瘢痕はんこんとよばれるあばたが生成される。例えば財務局長のベルトランは、天然痘の後遺症で右頬に大きなあばたがある。

 主な症状は高熱、全身痛、発疹で、クイーンはそのすべてを発現している。この日、日中の政務を終えて体調の悪化を自覚したクイーンがべルッチ宮廷医長を呼び、天然痘と診断された。

 現在、クイーンは自室に隔離され、急性症状にひどく苦しんでいる。

「過労が誘因になったのでしょうか、連日激務をこなされていましたから。即位して日も浅いときに、おいたわしい」

 ロマン女史は憂いの濃いまつ毛を伏せ、祈るように指を組み合わせて、静かにうつむいている。

 一方、モラレス伯爵の反応は温厚な彼らしからぬ激しさであった。

「あぁ、なんということだ。先王薨去こうきょし、国は乱れ、治まってのち、今また未曾有みぞうの災難に見舞われる。クイーンは国にとって欠かせぬお方。その方に、天は無情の苦しみを与えようというのか!」

 答えられる者は誰もいない。だが心情は全員が共有している。

 いずれにしても、クイーンの罹病りびょうについては国の大事なので、公にせぬため、決して口外してはならないこととされた。口外は無論、その現実を思い起こすことさえ忌まわしい出来事である。

 全員、秘密を守った。

 だがクイーンの容態は快方に向かうどころか、悪化の一途をたどった。玲瓏れいろうたる美を誇った容貌も、たちまち痛々しい膿疱のうほうに侵食され、傍らに仕えるエミリアやヴァネッサに怖気おぞけをふるわせた。熱もさらに上がり、意識も混濁して始終苦しげな吐息を漏らしている。ベルッチ宮廷医長はこのまま進行すれば、命を落とすであろうと予言した。

 誰も彼を責めはしない。この時代、天然痘は罹患すれば特効薬も治療法も存在せず、病原菌に本人の体力が打ち勝つのを期待するほかないのである。

 ベルッチがいよいよ危篤を告げた夜、エミリアは自らの思案をフェレイラ議長、ロマン女史の二人に伝えた。

「クイーンにご回復いただくためには、もはや手段をいとうことはできません」

「何か考えがあるのかね。神医アブドも国都を離れ、今は足取りをつかめないと聞くが」

「確かに、神医の力は偉大です。しかし、頼みの綱は神医アブドのみではありません」

「サミュエル・ドゥシャンという、例の術者のことですね」

 ロマン女史が、盲人の名を口にした。クイーンの不予に心労が重いのか、いささか暗く、やつれて見える。

 だがそのヘイゼルの瞳は、冷徹な理性を失ってはいない。

「そうです。彼に、病気を治癒する能力があるのかは私にも分かりません。しかし今は彼にすがるしか手はないのではないでしょうか。たったおひとりで病と闘っておられるクイーンをお助けするため、ほんのわずか、我々に残された一筋の光ではないでしょうか」

 一拍のち、ロマン女史が反応した。

「私も、同じことを考えていました。本来、術はむやみに使ってはなりません。それがこの国の建国の母でもあるソフィー女王とソフィア女王の教えであり、連綿と続く国是でもあります。しかし、人の命を助けることについては例外です。彼が善なる術者であれば、必ずやその力の及ぶ範囲で、クイーンをお救いいただけるのではないかと思います」

 ロマン女史の賛同を得られたことで、エミリアとしては提案の許可について確信を持った。

 フェレイラ議長も、クイーンの生命に関わることで、否やはない。

「サミュエル殿は、私が必ず説得します。この命に代えても」

 クイーンが逝去すれば、自分も現世に留まってはいられない。そのある種の高揚感と陶酔感を伴った忠誠心が、彼女に珍しく過剰で過激な表現を使わせた。

 すぐに、盲人の部屋を訪れた。

 暗く、停滞した空気のなかで、その者は黒い塊となってぽつねんと寝台の横にある。ここしばらくクイーンが突然、姿を現さなくなったので、彼の孤影は再び絶望の深淵に飲み込まれつつあるようにも見受けられた。

 エミリアは女官からろうそくを受け取り、そっと足を踏み入れた。

 気配の源を灯もし火で探ると、闇の向こうに彼の顔がある。静かに、語りかけた。

「サミュエルさん」

「……エミリアさんですか?」

「そうです。あなたにお話ししたいことが」

「はい」

「実はクイーンはご病気です」

 膝を抱き、背中を丸めてぼんやりしていた姿が、緊張のためこわばった。ルースが面倒を見ていた頃は丁寧に剃り上げられていた髭が、だいぶ伸びてきている。

「天然痘に罹患されて、それでここ数日あなたともお会いになれなかったのです。容態は悪化し、今は生死の境をさまよっておられます」

「僕に、女王様を助けられるのではないかと?」

「その通りです。もはや医師の手には負えず、術者の力におすがりするほかないと」

 沈黙が流れた。

 エミリアは内心で焦りながらも、辛抱強く彼の決断を待った。

 彼が術を使うことに過度に慎重であるのは悪いことではないが、クイーンの命に対してもその慎重さを発動するのは避けてほしかった。

 だがサミュエルには、別の不安があって、即答できずにいた。

「僕は病気の治療に、術を使ったことがありません」

「クイーンの病気を治すことはできないでしょうか」

「僕は光の術者です。光はすなわち天意。天の審判を術として具現化するのが光の術者です。僕ができるのは、悪しき者を葬り、善き者を救う、天の意志を伝えることです。女王様が善き者なら病はたちどころに快癒するでしょうが、そうでなければその場で命を落とします」

「クイーンは無論、善き方です。16年間を最も近くで寄り添ってきた私が断言します」

 再び沈黙があった。だが先ほどよりもその時間は短い。

「分かりました。やってみます」

 早速、サミュエルを連れ、クイーンの寝室に入った。看護していたベルッチ宮廷医長とマルガリータ女官長を追い出すようにして、三人だけの密室にした。

 病のために昏睡しているクイーンはまったく痛ましいばかりで、顔に大きな膿疱がいくつも浮き上がり、高熱と痛みで異常な発汗が見られ、呼吸も速い。そしてその呼吸のたび、苦しげな声が喉の奥から漏れてくるのが、エミリアにはまるで心臓を握りつぶされるような感覚で非常につらい。

 クイーンをこの苦しみから救えるなら、自分の命を捧げてもかまわない、と思うと、自然と涙があふれ、膝が崩れてひざまずく格好になった。

「お願いいたします、どうかクイーンをお救いいただきたい、何卒」

 サミュエルは進み出て寝台に手を伸ばし、そこからクイーンの右手を探り当てて、優しく握りしめた。人間の体温とは思えない熱が、薄い皮膚を通して流れ込んでくる。

 しばらくそのまま、思念の波を合わせるのに集中した。

 そして一瞬、巨大な思念を送ると、クイーンの周囲に霧のような光のもやがたちこめて、たちまち消えた。

 エミリアが恐る恐るのぞき込むと、なんと、顔の膿疱が完全に消えている。痛みや苦しみはもうないのか、目は閉じているが静かな寝息で、ただ眠っているだけのように見える。汗も、急速に乾きつつあるようだ。

「病は消えました。明日になれば、平癒しているでしょう」

 エミリアはやや斜め後ろから、そう宣告した盲人の姿を仰望した。

 すさまじい情動の奔流が、全身を雷光のように駆け巡った。それは感動か、畏怖か、尊崇か、歓喜か、どのように表現しても間違いではないし、どの言葉を使っても何かが足りないようにも思える。

 かつて術者の奇跡を目の当たりにした者はみな、このような思いを胸に抱いたのであろう。

 クイーンの回復が天意であるとするなら、それを術として具現化するこの盲人は、まさに預言者と言える。天意の前に人は無力で、抗うことも、異議を唱えることもできない。ただ崇めることしかできないであろう。

 エミリアはしばらく主君の様子を見守ったあと、部屋を出て、クイーン危篤の報せを聞いて参じた人々に、主君の無事と快癒を告げた。

 人数は少ないが、大きなどよめきの合唱が起こり、参集者たちはそれぞれの個性に応じて思い思いに安堵や喜びを表現し始めた。

 ヴァネッサ近衛兵団長代理が顔を両手で多い嗚咽おえつを漏らす。マルガリータ女官長が落涙し文字通り胸を撫で下ろす。フェレイラ議長がヴァネッサの背中を支え喜びを口にする。モラレス伯爵が喜色満面で躍り上がる。

 そのなかで、ロマン女史はじっとエミリアを見つめている。視線が合うと、透き通るように情の深い表情をしている。心なしか、目元と口元に笑みがにじんだ気もするが、錯覚ではないかと思った。ロマン女史は決して人に笑顔を見せぬと知られていたからだ。

 ひとり、ベルッチ宮廷医長が一点だけ得心がゆかぬように疑問を呈した。

「しかし、よくご回復を。先ほどまでは確かにご危篤であられたのだが」

「あぁそれは、かの盲人も実は医師なのです。外国で医学や薬学を学び、縁があってこの宮殿に逗留を」

「なるほど、そうでしたか。世界は広いから、天然痘の特効薬もあるかもしれませんな」

 咄嗟とっさに言葉に起こした筋書きを、ベルッチは微塵の疑いもなく信じたようであった。彼は自らの職権や権威といったものに無頓着な人物で、思わぬ提案を披露した。

「それならば、どうでしょう。クイーンには主治医がおられぬ。そのサミュエルという御仁を主治医とされては。私は老体であるし、才能もなければ体力もない。クイーンとも個人的なご縁があるということなら適任では」

「結構なことと思います」

 すかさず、ロマン女史が賛同した。

 (どうも、妙なことになった)

 エミリアは、自分ひとりの力ではどうにもならない、事の成り行きというものがあることを実感せざるをえない。

 (術者が、クイーンの主治医か)

 術者の存在が世界とクイーンの未来にどのような関わりを持ってくるのか、彼女には想像もつかない。可能性はそれこそ限りないであろう。

 しかし少なくとも過去のことを言えば、彼は二度もクイーンの命を救ったということになる。彼女個人には、サミュエルに対して忌避の念を持つ理由はない。クイーンも同様であろう。むしろ感謝と畏敬の思いを深めるに違いない。

 そして、サミュエル自身の気持ち。

 これはまったく予断ができない。ただ少なくとも表面的な行動や事象から判断すれば、彼に邪心はなく、いわゆる「善き術者」のように思われる。

 光の術者すなわち天啓を携えた預言者が、悪しき心を持っているはずもない。

 いずれにせよこのときから、サミュエルはクイーンの主治医という誉れ高い地位を得て、「先生」と呼ばれるようになった。少し前まで子供たちの家庭教師をしていた頃とは立場も職責も大きく異なるが、同じ呼び名であることに変わりない。

 サミュエルは、いつの間にか医者ということにされ、少々不慣れながらその役を演じるのと引き換えに、王宮に住まう名分と居場所とを手に入れた。

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