第5章-⑤ 不幸と不幸のあいだ
マルケス議長の失脚によって、クイーンは政治的体制の再考を迫られた。
内閣として機能する枢密院、その議長職は副議長たるフェレイラ子爵を繰り上げることに迷いはなかった。剛腕というわけではなく、独創力も乏しいが、バランス感覚と調整力に
年齢は50代半ば、細身でやや長身、銀色の髪に銀色の髭、鋭く細い目つき、重厚で落ち着いた声、完璧に洗練された宮廷人としての立ち居振舞い。
それらはすべて、安定や信頼といった他者からの印象に深く寄与していて、彼自身の名声へとつながっている。しかし彼自身はそうした評価から超然としていて、常に淡々かつ粛々と自らの役割をこなしている。
前任者ほどの実績や閲歴には及ばないが、個性の強いメンバーで構成される枢密院を統御し議論や利害を調整していく手腕は充分に期待できる。
次に彼の昇進によって空位となる副議長職だが、これにはロマン神官長を兼任させることで宛てた。この人事はクイーン自身の強い希望によるもので、ほかに最良の適任が見当たらないという消極的理由もあるが、第一は彼女の誠実さと有能さを高く評価してのことである。それに私心がない。
ロマン女史は30代半ばで背は平均的、瞳はヘイゼル、だが男性とは決して視線を合わせない。特に異性と目を合わせてはならないなどといった戒律などこの国にはないのだが、建国の母とも言えるソフィーとソフィアの姉妹が生涯を処女で過ごしたために、男性の気を惹くことのないよう注意しているのだ、とまことしやかに噂する者も多かった。確かに修道衣のフードからのぞく目鼻立ちは水準以上に整っていて、まだ充分にみずみずしい肌や、やや薄いが色とかたちのよい唇は、男性の好意を集めるだけの魅力があった。
ただその峻厳なまでの教えに対する忠実さと、「仮面の女」と評されるほどの硬質の表情とが、異性が近寄ることを許さない。
彼らは疑いなく有能だが、この両名では枢密院がやや謹厳の側に偏りすぎるため、副議長に次ぐ要職である枢密院書記官長として建設局長のモラレス伯爵を任命することとした。
モラレス伯爵は40代後半の背の低い小太りの紳士で、柔和な姿勢と表情が印象的である。
外見では茶色というよりは赤に近い髪色が最大の特徴で、あとはごくごく平凡と形容してよい。人あたりがよく、およそ他人と
しかし現在はまだ枢密院の一局長たる身であり、彼の人格と能力を見出し引き上げたことは、クイーンの人物眼の非凡さを証明するものであったろう。
彼ら三名はクイーン治世下の名トリオとして知られるようになり、その名声は後世においても高い。
ロンバルディア教国はほとんどの女王の統治下においてこの枢密院の力が強く、ときに能力に欠ける王に代わって専横を振るう者もいたが、エスメラルダ女王時代は基本的に親政の形式をとっている。すなわち重要な決定はクイーンの裁可が必要であったし、多くの場合は女王の独断も許された。このトリオは、枢密院が行政や政治的判断を主導して行うような独創性や野心に富んだ機関としてよりも、クイーンを
マルケス前議長の穴埋めはひとまず決着した。
だが近衛兵団長はしばらく不在のままとされた。副団長のヴァネッサは能力もあるし、忠義心も人後に落ちぬが、経験が浅い。正式に副団長に就いてからでさえ、まだ30日足らずに過ぎないのである。
そのため、彼女にはひとまず兵団長代理の職を与え、副団長代理に千人長中の先任であるジュリエットを任命した。彼女は「馬術の女神」と呼ばれるほど馬術が巧みで知られている。
これで、人事面の穴埋めはやや応急処置的ではあるが、決定した。新任者としては通常、時間をかけて丹念に行うはずの引継ぎがないため、どの者も体制が整うまでは負荷が大きいが、いずれも忠実に新たな任務に取り組み始めた。
クイーンは今後のことも考え、フェレイラ議長とロマン神官長にだけは真実を伝えた。真実とは、この宮殿に術者たる盲人が滞在していること、その盲人は先般の内乱の発端ともなった暗殺未遂事件で当時のプリンセスであるクイーンを術で救ったこと、アンナ前近衛兵団長が術者の存在をマルケス前議長に漏らしたこと、盲人を殺そうとマルケス前議長が謀ったこと、神医アブドの術で盲人は死の淵から這い出て快方に向かいつつあること、近衛兵のルースが巻き添えで亡くなったこと、マルケスとアンナはそうした経緯で地位を即時解任となったことなどである。
両者とも、少なくとも表面的にはさほどの反応を示さなかった。
結局、クイーンの方針に対する支持が示された。マルケスのように、将来の脅威と恐怖をもって反対を言い募ることはなかった。
こうしてサミュエルの生命と安全は改めて保証されることになった。
サミュエルは姉を失った頃と同様、食事もとらぬほど落ち込んで、近衛兵や女官はおろか、クイーンの声かけにも単純な応答しかできなくなっていた。強いストレスがもたらす一時的な脱力状態にあるのは明らかであった。
クイーンはメリッサという名の心の清い女官を彼の近くに仕えさせる一方、彼女自身も朝と夜に足を運んで、他愛のない話をしては帰ってゆく。
時には、メリッサに代わって、彼女が食事の介助をした。サミュエルが前向きな気持ちになれるよう話題を選んで、明るく楽しそうに話す。それは相手の反応もなく、いわば独白のようなものではあったが、飽きるでもなく、
術者とはいえ、一市民に対してクイーンがすべきことではない。
見かねて、エミリアが一言だけ言ったことがある。
「クイーン、あそこまでなさることは」
「彼はきっと、誰かに依存して生きていく人なのだと思う」
「依存……?」
「大切だと思う誰かに、依存してしまう。愛するお姉さまを亡くして、ルースと接するうちに立ち直りかけた。でもそのルースも失ってしまって。きっと、彼の心のなかには、もう誰もいない。せめて、私が彼を永遠の闇のなかから救ってあげたい。命を救われた身としては、それくらいはしてあげたくて」
「分かりました」
とは言いつつ、しかし、クイーンと個人的な信頼関係を築きそれに依存するというのはいかがなものか、と思わぬでもない。
だがそれでも、クイーンがそうしたい、と思うことはこの国では絶対か、あるいは絶対に近いだけの価値を持つ。
エミリアはそっと、献身的なまでにサミュエルに手を差し伸べる主君の姿を見守った。
少しずつだが、サミュエルは再び回復の兆候が見られるようになった。
日々の挨拶に加え、日常的な会話にも応じるなど、良好な変化が見られる。表情は相変わらず暗いが、最低限の意思疎通が図れるようになったことは喜ばしいことであった。
(徐々に、だが確実に元気になっている)
エミリアはサミュエル自身のためにも、あるいはクイーンのためにも安堵した。
だが不幸というものは多くの場合、次の不幸を招き寄せ、それらはいずれも悲劇や絶望という名の音楽を奏でながらやってくる。
予期せぬ事態が、ロンバルディア教国を襲った。
クイーンが、重病に倒れたのである。
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