第5章-④ 選ばれた命

 一両日、意識を失うほどの重篤な状態が続き、ようやく覚醒すると、全身が火に焼かれるように高熱を帯びているのが自覚できる。周囲の状況を把握したいが、体が思うように動かないほど気だるい。なんとか首だけ動かすと、誰かが反応して声を上げたことが分かる。ただそれが自分の名前を呼んでいるのだということを理解するまでに、しばしの時間が必要であった。

 何故このような状態にあるのか、記憶も曖昧あいまいである。それでも、わずかながら意識が闇のなかから引き上げられてくると、意志と声帯が神経を介して結びついた。

「サミュエルさん、私の声が聞こえますか?」

「……はい」

 サミュエルは生きていた。

 彼は神医アブドの助けにより、死の淵から谷底へと転落することを免れていた。彼が摂取したトリカブトの毒は致死量を超えていたが、老いた術者の奇跡的な力と、若い術者の生命力が猛毒にも打ち勝ったということであろう。

 彼が反応を示すと、声をかけた女性が部屋を出てゆく気配がして、濁った意識の沼の水面で、つかの間ぼんやりした。

 やがて、先ほどとは別の人物が入ってきた。印象深い香りを知覚するとともに、彼の理性は急激に現世に引き戻された。

「サミュエルさん、聞こえますか?」

「女王様……ですか?」

 透き通るようなけがれのない声と、高貴なバラの芳香とが、彼の最も近くにいる者の正体を確信させる。そのすぐそばにいるのは、においが薄いが、エミリアであろうと思われた。

「そうです、私はエスメラルダです。あなたがご無事で本当によかった」

 無事、というのは自分は事故かなにかにでもったのだろうか。経緯が定かでない。

 ともかくも、サミュエルは命をつないだ。

 彼が意識を失っているあいだにも、事態は進行していた。彼に毒を盛った張本人であるマルケス議長は捕らえられ、近衛兵団の追及によって事件の全貌が明らかとなった。

 マルケス議長が首謀者であることが判明したのには、これも神医アブドの助力がある。

 術の力を込めた妙薬をサミュエルに処方し、彼の容態が落ち着くとともに、アブドは体力をほとんど使い果たしたために、床にせった。そして宮殿の豪奢な寝台から、彼はこの事件に深く関わっている者を告げた。

「心に巨大な闇を抱えている者がおります。その者は病を装い、周囲をあざむいてその実、毒を用いて善人を害そうとしています」

 クイーンにはそれだけでアブドの言わんとする犯人の察しがついた。その者とは、枢密院議長の要職にあり、彼女自身にとって師にもあたる人物のことであろう。彼は仮病を使い、自分を局外に置くことで疑いがかかるのを避けようとしたのだ。

 しかし、動機が分からない。何故、サミュエルとルースに彼が害意を持つのか。サミュエルが術者であることは近衛兵団の幹部しか知らないはずではないか。

 マルケス議長の拘束命令を出してすぐ、クイーンはエミリアに加えてアンナとヴァネッサを召集した。情報漏れに関し彼女らを疑ったというより、真相を話して、意見を聞きたかったのである。

 サミュエルが術者であることを知る者が、何らかの事故ないしは思惑によって、マルケス議長にその秘密を漏らしてしまい、議長がサミュエルに殺意を抱き、犯行に及んだとするのが説明がつきやすい。

 エミリアは当初、アンナの兄アンドレアが臭いと睨んでいた。悪い人間ではないが、少々軽薄なところがあるので、うっかり酒に酔って人に漏らさないとも限らない。あとは、秘密が完璧に守られているはずだ。自分は絶対に漏らしていないし、クイーンも不用意に余人が聞こえる状況で話すはずがない。アンナもヴァネッサも、近衛兵団の最重要幹部なのだから、漏らすはずがない。

 アンドレアについて言い出そうとしたとき、ふとアンナの異様な気配に気づいた。もともと色白の肌が、青みがかって蒼白という表現そのままの色になっていて、目に落ち着きがなく、うつむいて誰とも視線を合わせない。そして尋常ではないほどの汗を浮かべていた。その水滴のいくつかは顔を伝い垂れ始めている。

 エミリアはその表情を見据えながら、小さく声を絞り出した。

「アンナ、まさか……」

 呼びかけると、アンナは顔をくしゃくしゃに歪めて、うなだれた。

「申し訳ありません、私がマルケス議長に漏らしました。申し訳ございません……」

 クイーンは信頼していた恩師と側近に裏切られたと知って、ほとんど虚脱状態となった。眼だけは、つらそうにアンナを見つめている。

 エミリアが、代わって指弾した。彼女は近衛兵団を率いていた頃から、厳格で厳正な上官として知れ渡っており、組織の綱紀の乱れや怠慢を追及することには容赦がなかった。部下にも上官にも、また主君に対しても常に謹厳実直と公明正大をもってしたから、近衛兵団は秋霜しゅうそうのような緊張感が保たれていた。

 彼女にとっては元部下にあたるアンナの行いに、激しい怒りと失望が湧き上がる。不正や犯罪の糾弾にかけては、彼女は一流の検察官にも引けを取らないであろう。

「もしや貴公も一味なのか」

「そうではありません。私はただ、彼が術者であると教えただけで……」

「教えただけだと、何を言っている」

「マルケス議長は、術者は殺すべきであると確かに言いました。しかしよもやそれを実行するなどとは思えず」

「予見できなかったとでも言うのか。もし術者の存在が公になろうものなら、また国が二つに分裂するかもしれないのだ。事実、マルケス議長はクイーンに背いてまで彼を殺そうとしたのではないか」

「エミリア、そこまででよろしいでしょう」

 追及を続けさせれば、血液が沸騰しかねまじいほどのすさまじい気色けしきに見えたのであろう、クイーンがあくまでも冷静に、場を収拾しようとした。エミリアが感情的になるのは珍しいことであったが、その分、クイーンはいくらか冷静に、多少は俯瞰的に事態を見ることができたかもしれない。

 だが次の言葉が、三人の臣下の心を瞬時に氷づけにさせた。

「過ぎたことは仕方ありませんし、アンナも今は真実を話してくれています。まずはマルケス先生の弁明なり謝罪なり聞いた上で、それぞれ理非曲直を正せばよいでしょう。先生はかつて、術者は世界を滅ぼす存在であると警世し、私にも事あるごとに私見を述べていました。私は必ずしも賛同はしませんでしたが、少なくとも動機は充分に思い当たります。しかし理解と許容とは異なります。彼がサミュエルさんの毒殺を図ったということであれば、私は彼をとこしえに許すことはできません。その悪意によって失われた命を思えば」

 そう、すでに失われた命がある。術者サミュエルの命を選択した結果、その代償としてわずか15年の生涯を閉じ、現世から永久に旅立った者がいる。

 ルースは死んだ。

 サミュエルを救うことは、ルースを死に追いやることであった。その決断はクイーンに永遠の十字架を背負わせることになるであろうが、その状況を現出させたのはまずはマルケス議長である。

 マルケス議長はすぐに近衛兵団に捕縛され、有無を言わせず牢に入れられた。彼は術者殺しの主犯が自分であると発覚したとしても、クイーンに直接、自らの思想や正義を論じれば、必ず翻意させることができるし、またそれだけの影響力も持っていると信じていた。

 しかし、クイーンはある意味で最大の罰を彼に課すこととした。

 クイーンはヴァネッサを彼の尋問にあたらせ、その思想やら正義やらを伝え聞いたが、自らは面会しようとしなかった。そして彼を大逆の罪人であるとした上で、地下の牢獄に彼を閉じ込め、その死まで決して人と会わせなかった。獄吏さえも彼と会話することを禁じられた。

 マルケスは日の入らぬ牢獄で、術者は危険である、断固滅ぼすべきだと叫び続けたが、その主張はついに誰の耳にも入ることなく終わった。彼のように強固な信念を持ち、それに突き動かされる種類の人間は、自らの正義と外界との接続が完全に遮断されたとき、最上級の苦痛を味わうこととなる。

 詳細は伏せられたものの、女王の大権と勅命によって、マルケス議長の名は大逆犯として公表され、伯爵号と枢密院議長職は剥奪、私領は没収、一族は財産のほとんどを失って平民階級に落とされた。

 マルケス自身は拷問も虐待もされなかったが、あらゆる情報から隔離され、いつになればクイーンとの面会や身柄の解放がされるのかさえも分からず、失意と落胆、そして絶望のうちに、一年後に看取る者とてなくひっそりと孤独のうちに死去している。

 クイーンは優しく、慈愛と寛容に満ちた君主として当時の人々にも後世の人々からも印象されるが、無制限に慈愛と寛容をもって他者を許したわけではなかった。

 彼女には宗教的教祖を気取る趣味はなく、信賞必罰という言葉に示されるように、罪ある者には相応の罰をもってした。マルケス議長しかり、そしてアンナも例外ではありえない。

 アンナの自白を得ると、それに対しては真実の告白であるとして一定の斟酌しんしゃくをしたが、近衛兵団長の職は解いた。職務上、命に代えても守らねばならぬ秘密を漏洩し、国家を危険にさらした以上は、近衛兵団長という要職と重責を信頼して任せることは不可能であった。

 彼女は表向き、病気療養の名目で近衛兵団長をしりぞき、自ら近衛兵団を辞した兄アンドレアとともに故郷に帰ることになった。その後は再び世に出ることもなく、結婚や子をなすでもなく、実家の農場を兄とともに継いで、驚天動地とも言える秘密を胸のうちに抱えている以外は平凡に老い、平凡な暮らしのなかで生命を終えた。

 無論それは、術者について一切他言しないむね、クイーンとの密約があったからである。

 彼女は近衛兵団長としての最後の務めであり矜持きょうじであるかのように、術者の件について生涯、口を閉ざした。

 また実行犯である料理人と女官はマルケス議長の詐術にかかっていたわけで、悪意はなかったが、仮にも王宮で働き、女王の身にも危険を及ぼしうる立場でありながら、大臣と私的に結びついてその密謀に加担するなど言語道断であるとして、宮中の治安維持を管轄しかつ近衛兵団長代理に任命されたヴァネッサによってともに髪を刈られ、襤褸らんるのみの姿で放逐された。この時代のこの地方では、髪を刈られた女性は犯罪者の烙印を押されたも同様で、頭髪が自然に伸びるまで世間から爪はじきにされるのが通例であった。一種の刑罰として機能していたと言えよう。

 しかし、何はともあれ、目覚めたサミュエルについてである。

 彼は高熱と全身の倦怠感とを自覚しつつ、おぼろげな記憶の糸を少しずつ手繰たぐり寄せつつ、クイーンのもたらす情報を整理して、状況を理解しようと務めた。そして自分が毒殺されそうになったこと、危うく命を落としかけたところへ神医アブドの術に救われたこと、首謀者や実行者は既に逮捕して罰を与えたことなど時系列順に聞いた。

 サミュエルは一見、無感動にそれらを受け止めていたが、実際は反応するだけの肉体的精神的活力が回復していないだけであった。

 だがそれも、ルースの死を聞くまでのことであった。

 彼はクイーンの話を聞くうち、徐々に持ち前の知性と理性が戻ってきた。そしてあることが気になった。

「ルースさんは、どうしましたか」

 脳裏にある無彩色の記録を読み返してみる。

 夕方になると、彼の部屋にはいつも食事が運ばれてくる。食事の介助はいつもルースがやってくれるのだが、あのときは彼自身の食欲があまりすぐれず、ルースは朝食をとりそこねていたらしく、最前から腹が鳴っていたので、サミュエルは吹き出してしまい、せっかくなので半分どうぞ、と言った。

 ルースもけらけらと笑い、好意に甘えて、その日の夕食で彼女の大好物でもあるスペッツァティーノを交互に食べきれいに平らげた。

 そのあとはいよいよ記憶がぼやけて、何が起こったのかを鮮明に思い起こすことができない。

 ルースはどうしたのだろう。この場にいないのは何故か。毒があの食事に混入されていたとすれば、彼女も巻き添えを被ったに違いない。彼女も、その術者たる医師に治療を受けて、今はどこか別の部屋で療養しているのだろうか。

 彼の疑問に、クイーンが正面から答えた。

「彼女は、亡くなりました」

 ベッドに横たわりながらも、サミュエルの精神は枯れ果てた荒野に置き去りにされた子供のように行き場を失った。彼はからくり人形のようなぎこちなさと無機質さで、静かに顔をクイーンから天井へと向けた。姉を失った頃と同様、彼は再び孤独で真っ暗な精神的監獄の住人となった。

 それから、サミュエルはクイーンが何度か呼びかけても、反応しなかった。彼の感情が深い悲しみの沼に沈んでいることを悟って、クイーンははら、と涙の粒をこぼした。

 部屋を出たあと、クイーンはエミリアを自室に呼んで、しくしくと泣いた。

 思えば、彼の人生を狂わせているのは自分である。一度目は虎口を逃れるため、平穏な生活を送っていた彼に、術者としての力を使わせてしまった。姉を失い悲嘆に暮れていた彼を宮殿に招き、よかれと信じて保護していたが、今度は命を狙われるような窮状に彼を追い込んでしまった。

 自分のせいで彼を苦しめている、とクイーンは言った。

 表面的な事象からすれば確かにそうかもしれない。だがクイーンが意図してそうしたわけでも、何らかの過失があったわけでもない。

 防ぎえなかった、と慰めたかったが、しかしそのような単純で幼稚な言葉が聞きたいわけでもないだろう。

 結局、エミリアはそっとひざまずき涙を拭いただけであった。

 そして、このように大切な人から頼られる自分の境遇と、誰も頼る者のないあの盲人の心情を思った。

 自分も、今まさに目の前で泣いているこの人を失えば、彼の気持ちというものが理解できるのだろうか。

 想像しようとして、すぐにやめた。

 世の中には、想像しただけで不快になる事柄、想像しない方がいい事柄、あるいは想像さえすべきではないとされている事柄もある。今回はそのすべてにあてはまっている。

 彼女にとっての大切な人を失うくらいであれば、自分は躊躇なくその人を守って先に死にたい、とも思う。

 片腕を失ったことに、彼女が後悔の念を持たぬ所以ゆえんでもある。

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