第5章-⑦ 天意に従いし者
翌朝、クイーンの目覚めにただひとりでそばにいたのが、エミリアだった。
彼女のまぶたは疲労の重みにやつれていたが、その奥には深いいたわりと敬愛、献身の意志とがたゆたっている。飽くことも、
それは、忠義心などというありきたりな動機とは違う。いみじくもクイーン自身がエミリアをそう呼んだように、エミリアにとっても、クイーンは己の半身も同然であった。
いや、彼女にとっては半身以上の存在である。クイーンは自分自身にも等しく、そして自分以上にいとおしく尊い。
それをことさら誇ったり、鼻にかけたりするような気持ちはないが、余人とは違う想いと感覚でもって、彼女はクイーンを愛しているという
エミリアには権勢欲も、野心もない。ただクイーンのそばにあることだけが、彼女の望みであった。もしこれが、クイーンの寵愛を利用し、わずかでも私利私欲を満たそうとしたなら、世間は彼女を奸臣や
そして、彼女の一番の理解者であるその人が、目を覚ました。この瞬間を、エミリアはどれほど待ち望んだか知れない。
「お目覚めですか」
「……エミリア」
東の窓から、朝の光が差し込んで、まぶしそうだ。
エミリアは立ち上がり、顔を寄せ、自らの影で強烈な日光を和らげた。
見上げる瞳にはまだ活力がとぼしいが、意識は完全に戻っているようであった。
「ご気分はいかがですか。どこか痛いところなどは」
「なんだかぐったりしてるけど、大丈夫そう。眠る前のこと、よく思い出せないわ」
「ご病気をなさったのです。ですが今は完治されました。もう少し休めば、きっと体力も戻ります。政務はフェレイラ議長が、軍務はネリ将軍が代行されています。今はご案じなさらぬよう、ゆっくり体をお休めください」
「うん、分かったわ」
エミリアがそう言うなら間違いない、エミリアの言葉に従おう、という心情でいるのだろう。少なくとも、エミリアはそう解釈した。
夜通し、布に水を含ませ、唇を拭いたために、喉は潤っているようである。
が、その水も今はない。
「水をお持ちします。目を閉じて、お休みください」
「うん」
素直に、目を閉じた。病後とは思えないほど、顔色は良好である。この分なら、もう心配はいらないようだ。
エミリアはクイーンの部屋を出てすぐ、不意にめまいを催し、あとをマルガリータ女官長に委ねて、自室へ引き取った。そして疲労と心労の連続、不眠、ようやく訪れた安堵のなか、睡魔に
次の日の早朝、クイーンはすっかり体力と気力を充実させ、寝台に背中を縛りつけておくのにも飽きて、むくむくと起き上がり、ベッドサイドの鈴を振った。
慌てたように、室外で侍立していたマルガリータ女官長とダフネ近衛兵が入室した。
「おはようございます、着替えを手伝ってくださる?」
「承知いたしました。お加減はもうよろしいのですね」
「はい、もうこの通り元気に。ご心配をおかけしました」
二人は直ちに、部屋の奥にある衣装部屋へとクイーンをエスコートした。彼女は凝り性で、特に服飾に関しては趣味の域を超えている。300着以上持っているドレスも、ほとんどは自身のデザインによるものである。
「今日はこれにしましょう」
選んだのは、青系統が好みのクイーンにしては珍しく、鮮やかな赤のドレスであった。
15分ほどをかけて着替えを終えると、部屋の外には気配を察して宮廷内の重要人物たちがぞろぞろと集まりつつある。フェレイラ議長、ロマン神官長、コンスタンサ王女、そして無論エミリアも、この時には睡魔から解放され、顔を見せている。
部屋から無事な姿を現すと、彼らは一様に安堵の吐息を漏らした。クイーンが治癒したと知ってはいても、実際にその回復ぶりを目にしないことには、不安は完全には晴れない。
だがクイーンはまさに彼らの知る通りの姿に戻っていて、明るい表情のなかに、快活な笑顔を浮かべている。重い病も、彼らの主君の美貌を、一分子も損なうことはできなかった。
クイーンはそれから、エミリアとヴァネッサに加え、フェレイラ議長とロマン神官長のみを留めて、詳しい経緯を聴取した。この面々はすなわち、サミュエルの術者たる事実を知っている者たちということになる。
これについては、主にエミリアが説明を行った。彼女の報告は、簡にして要を得ている。わずか3分のあいだに、クイーンは前後の事情をすべて把握することができた。
「よく分かりました。ヴァネッサ、サミュエルさんをここに連れてきていただけますか」
「承知しました」
やがてサミュエルが、ヴァネッサに連れられ部屋に入った。
クイーンは、今こそ、サミュエルと時間をとって、じっくり話したいと思ったのであろう。少しも話を急ぐ風もなく、ゆっくりと嚙みしめるように話し始めた。
「サミュエルさん、エミリアからすべて聞きました。私は一度ならず二度までも、あなたに命を救っていただいたのだということ。本当に、感謝いたします」
「僕はただ」
丁重な謝意を受け取ったサミュエルの声には、まだ暗い憂いがある。ルースを失ったこともそうであろうし、本来、濫用すべきでない術をまた使ってしまったことに、
「僕が使う術は、天意です。天は善き者を助け、悪しき者を罰します。天が、女王様をお助けしたということです」
「ですが、その天の力を使うと決めたのはあなたです。お姉さまに、決して使ってはならないと言われていたのでしょう?」
「そうです。姉は言っていました。天意を司る光の術は、世界に秩序と調和をもたらす。だからこそ、その力はみだりに使ってはならない。世界は常に、秩序と混沌のあいだを揺れ動き、陰と陽とを交互に巡っている。それこそが世界の本当の姿。だから光だけが強すぎてはならない。世界に闇が訪れ、闇に吞まれかけたときにのみ、光の力は世界を救う希望になりうると」
「世界に闇が訪れる?」
「女王様は、術式をいくつご存知ですか?」
「七つです。光、水、土、氷、雷、火、風の七つです」
「術式はもうひとつあります。それが、闇の力」
誰からとなく、列席者は顔を見合わせた。闇の術があるなど、聞いたこともない。術士奇譚の伝説当時からこの方、術式は七つであるとされてきたはずである。
サミュエルは静かに、淡々と、自らの知る術についての秘密を明かした。
闇の術、それがどのような力であり、どのような気質を持った術者に与えられるのかは定かではない。ただ世界を混沌へと覆し、破滅と衰退を招くものであるということだけが分かっている。いつか闇の術者が現れ、世界をその闇で染め変えようとするとき、光の術者は
光の術者はいわば、世界を最終的な破局から救うための希望の
ひっそりと暮らし、
「闇の術者は、いつか必ず現れるのでしょうか?」
「分かりません。術者の血統が続く限り、闇の術者がいずれ現れる可能性はありますが、それよりも先に、血筋が絶える方が早いかもしれません」
「術者の血統は今、世界にどれくらいいるのでしょう」
「それも分かりません。ただ分かっているのは、いにしえの術者の血統は、世界には大きく二つ。ひとつは風の術者アルトゥの子孫。いまひとつはその妹、ムングの末裔です。僕は、火の術者ムングの血を引いています」
「火の術者ムングの子孫?」
一同は再び耳を疑った。
術士奇譚によれば、
しかしこの術者は、自らムングの
サミュエルは続けた。
真相はこうである。ムングは確かに、セトゥゲルとの戦いのなか、その腹心らによって殺害された。だが遅れて到着したアルトゥの術によって息を吹き返した。この心優しき姉は、自らの生命力のほとんどを風の息吹に込めて、妹の
それはやはり、奇跡の力と表現するほかないのであろう。
ムングの傷は癒え、心拍も、脳の活動も再開した。しかし体力や思念が、まだ完全には戻らない。ムングは姉の勧めに従って、今や
アルトゥはそのまま残り、セトゥゲルの目覚めを待った。彼の目覚めとともに、アルトゥはそれとなく男女の交わりについて水を向けた。自分と交われば、セトゥゲルの思念は飛躍的に強化される。すると案の定、この愚かな野心家は話に乗った。この男にすれば、まさに鴨が葱を背負ってきたように見えたに違いない。
交わりの最中、アルトゥは幾度も
セトゥゲルは、天上の快楽のなかで死んだのである。
まさに、かつてエルスをして、「アルトゥの慈悲は人々の犯したあらゆる罪を洗い流すに足る」と評せしめた、その通りの結果が彼を待っていたのであった。
アルトゥとムングはそのまま生き別れ、それぞれに子をなし、代々我が子に導きを授けて、やがてその血統は歴史のなかに埋没することとなった。
彼女らが何故、ともに祖父のもとへ戻らなかったのは不明である。恐らく、術者の力を世に出さぬことで、末妹エルスの死とその
そこまでを話し終えて、室内は鉛のような重い沈黙で隙間もなく満たされた。
しばらく、全員に情報を整理する時間があって、最初にフェレイラ議長が重い吐息とともにこの無音の空間を破った。
「未だかつて、耳にしたことのない話だ」
共感するように、ロマン女史が語を継いだ。
「我々が知っている伝説の裏側で、そのようなやりとりがあったのですね」
場の空気が少し和んだところで、クイーンが一段落した
「サミュエルさん、色々お話しくださって、本当にありがとうございます。術者のお考えや生き方について、よく分かりました。しかし私の考えは、以前お話しした通りです。あなたが今後、どのように生きていきたいのか。私はそれを、私の力の及ぶ範囲でお助けできたらと思っています。私としては、できればこちらに残っていただければうれしいです。もっと、サミュエルさんや、術者について知りたいことがありますし、あなたをお守りしたいのです」
こうして、クイーンの正式な主治医として、サミュエル・ドゥシャンが任命された。
目の見えない、明るい子供好きの盲人として、あるいは光の術者という、術者のなかでも特別な運命を持って生まれた者として、彼の道は今、開けたばかりであった。
その向こうにいかなる未来が待ち受けているのか、知る者はまだ誰もいない。
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