第3章-⑥ 天の意志、人の意志

 アンナの兄アンドレアがファエンツァで若い盲人の探索を始めてから、3日になる。

 だらしのない男で、費用としてたまわった金をほとんど酒に費やしてしまったため、手元には青銅貨と銅貨が数枚ずつしか残っていない。この程度では酒どころか滞在費にもじきに事欠くことであろう。

 盲人はこの町で数件の家庭教師を請け負っているらしく、なかなかの有名人のようだ。

「住まいはどこだ。そいつの居場所を知りたいんだ」

 アンドレアはれっきとした近衛兵の服装ではあるが、上官や同僚の目がないのをいいことに四六時中酒を飲んでいるので、目線が定まらない。ファエンツァの市民も面倒がって取り合わないので、調べは遅々として進まなかった。

 盲人の名前や職業までは分かったが、居所が分からない。

 家庭教師先の富豪を訪ねたときも、彼が大いに酔っていたせいで、協力を断られた。近衛兵といっても教国では警察権まで与えられているわけではなく、単なる王家の護衛隊に過ぎないわけで、無理強いはできないのである。

 盲人を見たという報を聞いてせっかく駆けつけても、不運にも入れ違いになったり、とにかく要領が悪い。しかも、酒を飲んだ勢いで余計なことをしゃべりすぎた。

「サミュエル・ドゥシャンという盲人がいる。この者を探し出すことができれば、俺はたんまりと金が入る。プリンセスが約束したんだ」

 だからツケで飲ませてくれ、と酒場で見苦しくたかるので、ずいぶんと目立つ。

 この姿を、内乱収束直後の混乱に乗じて稼ぎを探していたミゲロという悪党のグループが見つけて、「その盲人に懸賞金がかかっている。俺たちが先に捕らえて金をいただこう」と早合点した。この悪党一味は、賞金稼ぎ、人さらい、強盗、密輸、武器密売などの裏稼業を手広くやっているために、金のにおいがする情報には耳が早い。

 アンドレアの軽率が思わぬかたちでこのような一味に伝わったわけだが、当の本人は無論気付いていない。

 そして裏の世界には、裏の世界の情報網というものがある。アンドレアが、市場で青果問屋を経営するマルコというお人好しからサミュエルの住まいを聞き出した翌朝には、ミゲロ一党はもう人数を集め、一足先に盲人の住まう山林へと向かっていた。総勢七名。

 装備は木や草を薙ぎ払うためのマチェーテ、捕縛用の熊手や縄、格闘用の剣や斧など用意周到である。

 一党はファエンツァ街道から枝のように伸びる怪しげな杣道そまみちを見出し、途中で折よく地元の木こりに出会って聾者ろうしゃと盲人の住まう住処すみかを特定した。

 盲人の正体はどうあれ、捕らえて官吏に引き渡せば金になる。ということは、彼らのような人種にとってそれは商品である。

「いいか、間違っても殺すんじゃねぇぞ。理由は知らんがおかみが欲しがってる。生きて取っ捕まえて、取引の材料に使うんだ」

 そして「材料」と呼ばれた姉弟が住まう小さな家にたどり着いたのは、昼下がりの時分である。それは家というよりは山小屋の方が表現として的確かもしれない。

 姉は楽器の手入れを、弟は内職で帽子づくりをしていた。

 サミュエルは全盲だが器用な男で、手順さえ教われば一通りのことはできた。手先を使った仕事はもちろん、子供と走り回って遊んだり、チェスやチャトランガ、バックギャモンといったボードゲームもこなした。ドゥシャン先生は目が見えないがおよそ人にできることでできないことがない、と彼の教え子やその保護者たちからはみなされていた。

 このときも、彼はその慧敏けいびんな感覚でもって、得体の知れぬ集団の来訪を察知していた。しかも連中はそれぞれに武器を手にしていて、彼らの家を包囲するように配置されていることも悟った。

 彼は血が騒ぎ立つのを実感するほどに緊張して、まず姉の気配を探り、彼女のもとへと向かった。姉は聾者なので、その体に触れないかぎり、彼らは連絡の手段がないのである。

 姉のリリアンは異変に気付いていない。弟のただならぬ様子を察して、彼の手に触れた。聾者と盲人の姉弟は、互いの掌と指先で交信する。

 (危ない)

 (どうしたの)

 (誰か来た。武器を持ってる)

 (軍隊?)

 (分からない)

 無言でやりとりしているあいだに、サミュエルは戸を丁寧に叩く音を聞いた。

 (戸を叩いてる。備えて)

 (術はだめ)

 (姉さんを守る)

 (何があっても、術を使ってはだめ)

 リリアンは、まきを割る斧を持ってきて、サミュエルを火の気のない暖炉に押し込めた。

 押し込めた直後、気の早いミゲロは粗末な戸を蹴破り、勢いのまま、リリアンに体当たりをしている。

 華奢きゃしゃなリリアンは人形のような他愛なさで吹き飛ばされ、護身のために用意した斧もろとも、暖炉の前に転がされた。

 サミュエルは身じろぎひとつせず、その音を聞いている。

 どかどかと侵入者たちの足音が小さな屋内に鳴り響いている。ふたりで暮らすのも手狭なこの家に、これほどの客人が訪れたことはかつてない。

 だがこの客人たちは、ゆっくりと主人のもてなしを受ける気はないようだった。

めくらはどこだ、男の盲をさがせ。こいつは女だろう」

「見当たらないようですぜ」

「よく探せ、このばかったれ」

 家のなかをひっくり返されるような乱暴な気配だ。姉は羽交い締めにでもされているのか、低い苦しげなうなり声が漏れ聞こえる。

「いた、いました!暖炉に隠れてやがる!」

「おい熊手で引きずり出せ!」

 賊は狭い暖炉に熊手が思うように入らず四苦八苦している様子だったが、やがてサミュエルの大柄な体は掻き出されるようにして彼らの手中に捕らわれてしまった。

 サミュエルは大声で乞うた。

「待って、待ってください!」

「なんだ、がたがたとわめきやがって」

「お金なら床下にあります。それで許してください!」

「つんぼと盲が、俺たちの満足する金を持っているわけないだろう!」

 ミゲロの言葉に子分たちが下卑げびた笑いを放った。そのうちのひとりが、

「親分、この女はどうします。うまく整えりゃ、売れそうな顔立ちではありますぜ」

「どれ」

 顎を強引につかんで品定めすると、目が隠れるほどに伸ばした前髪が異常に陰気だが、その下に見える顔の造形そのものは悪くない。

「俺の好みじゃねぇ。お前ら試してみて、具合がよければあとから連れてこい。俺はさっさとこのガキを片付ける」

 歓声とともに幾人かが姉に襲いかかる気配がし、同時にサミュエルは麻縄できつく縛り上げられてしまった。

 サミュエルは、必死で抵抗した。姉と自分の窮地に、彼らしくもなく混乱して、言葉にならない悲鳴を上げている。

 無論、彼の能力をもってすれば、この状況を解決するのに造作もない。術を使えばよいのだ。

 だが彼の心中で、怒気と自戒とがせめぎ合っている。姉は彼の術によって救われたとしても、感謝はすまい。彼女自身が術を使おうとせず、一介の人間としてのみ抵抗しようとしているのが、その証左であろう。術を使うくらいなら死んだ方がよいと、彼女は本気で思っているらしい。

 だからサミュエルも、生身の体だけで抵抗を試みた。しかし上体を固く縛られているために、無駄なあがきと言うべきであった。

「こいつ、おとなしくしねぇか」

 ミゲロの拳が一閃し、口中に血の味が広がった。激しい殴打に意識が朦朧もうろうとしかけたが、姉の服が破られる音で、この若者の思念の奥底から天意の力があふれた。

 人とは思えぬ咆哮ほうこうとともに、彼を包み込むように白い球状の防壁が出現し、ミゲロらの体はまりのような軽さではじき飛ばされた。

「なんだ、こいつ」

 全員が異変に呆然とした直後、結界の力で麻縄を引きちぎったサミュエルの左腕が動いた。それはプリンセスを襲った刺客に対して術を放ったのと同じ動作であったのだが、当然、この場にいる誰も知らない。

 ミゲロはただならぬ気配を感じ、反応する間もなく、己の頭蓋骨の中身が急激に沸騰するような感覚を味わった。視界がまるで腐敗したミルクをかき混ぜているように不規則に歪み、しかしそれもすぐに消えた。

 手下ともども、ミゲロは眼球や脳を原型もとどめぬほど溶解され、絶命していたのだ。この家に侵入した七人全員が死んでいる。彼らの眼窩がんかや耳からは溶け出した脳漿のうしょうが流出して、彼らについ数秒前まで生が宿っていたことを思わせる手がかりも残されていない。

 断末魔の七重奏が奏でられたあと、屋内に静寂が戻った。

 サミュエルは立ち尽くした。

 そこに、姉がいる。

 彼は姉に声をかけてほしいと思った。しかし姉は、重い沈黙で彼に報いた。

 間違っていたのか。

 サミュエルはやむなく自問した。だがその問題を解く方程式を、彼は持ち合わせていない。

 姉に聞きたかった。否定でいい、非難でいいから、彼の行いに何かしらの評価がほしかった。

「姉さん」

 呼んで、ふらふらと歩み寄った。

 彼らをつないでいるのは、互いの手である。

 手を触れようとして、姉が動くのを感じた。

「姉さん」

 もう一度呼びかけたとき、姉は賊が腰に帯びていたダガーを首にあてがい、いささかの逡巡しゅんじゅんもなく頸動脈を切っていた。

 金属で人肌を切り裂く音、それから鮮血が噴水のような勢いであふれる音がして、サミュエルは全身したたかに血を浴びた。

 姉が自殺した、と分かったサミュエルは、まるで時が止まったような気がした。

 彼にとって唯一の肉親、唯一の寄るである姉が、自らの命を絶った。それは要するに、彼自身の半身を失ったのも同然である。

 そしてそれは、彼自身の過ちによるものであった。

 サミュエルが術を使わないでも、姉は賊になぶられ、殺されていたかもしれない。

 しかし彼は術を使い、姉は弟に救われたにも関わらず、自死という最も悲劇的な道を選んだ。

 それは現世への離別であり、あらゆる関係性への一方的な拒絶である。

 彼女は自分の命を捨てることで、弟をも現世に捨てたのであった。

 過ちを犯した者に対して、これほど強烈なメッセージはない。サミュエルは少なくとも彼の生あるうち、姉に弁解も謝罪もできないのである。

 術者リリアンの亡骸なきがらは、その生命の名残りでしばらく痙攣けいれんしていたが、やがて動きを完全に止めた。少しずつ、肌は冷え、指は硬直し、血は粘度を増してゆく。

 その過程を、サミュエルは姉の体を抱き、子供のような激しさで号泣しながら感じた。

 何時間も泣き続け、そこへアンドレアが訪ねてきた。

 思わぬ惨状に、彼もしばらく言葉なく凝然ぎょうぜん佇立ちょりつするばかりであった。

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