第1章-③ 英明なる王女

 ロンバルディア教国の首都アルジャントゥイユ。

 北端にアリエージュ川が流れ、その川に背中を向ける格好で、王宮たるレユニオンパレスが鎮座している。街区は全てその南側に並んでいる。王宮に近い周辺が近衛兵団の兵舎、政府関係者の官舎、警察本部、大学などが並び、その南に商業地や工房、さらに南に一般住宅や農場などが広がっている。

 レユニオンパレスの敷地は広大で、国事行為や王の生活の場であるメインパレスに加え、園遊会場、庭園、倉庫、厩舎、近衛兵団本営。狩猟場や馬場なども加えた総面積は、97万㎡にも及ぶ。

 この壮麗な宮殿に新たな主が帰還したのは、6月16日のことである。

 ただし、彼女は正式には女王ではない。女王は、カルディナーレ神殿にて一連の儀式を終えてからでなければ名乗ることはできないものとされている。儀式を行うにはまず退位する女王の譲位表明と内閣にあたる枢密院の承認手続きが必要だが、不慮の崩御ほうぎょによってその手続きが完了しない場合は、枢密院議長、副議長、神官長の三名の合議によって王位継承者を推薦することとなる。

 プリンセス・エスメラルダは第一王女であり、先代女王からも大臣たちからも後継者として目されていたし、英明であることは比類なく、そして国民からの人気も絶大であった。王としての資質はおそれながら歴代の女王に抜きんでておわす、とは先代女王存命の頃からささやかれていた評でもある。

 能力の点だけではない。その容姿の美しさは教国において冠絶しており、また表情が豊かで抜群の愛嬌があり、偉ぶらず誰とでも親しく話す性格から、特に彼女の美貌や人柄を知るアルジャントゥイユの市民からは人気が高い。

 先代女王薨去こうきょの夜、王位継承者を決定する三名の上級役職者の談合も、プリンセス・エスメラルダこそ女王に申し分なしとして、議論というよりは確認のみで終わった。

 彼女が側近を連れ馬車で帰還した時、特に近衛兵で負傷した者が見受けられ、またその馬車も、暗殺の危険を減らすため同じものを3台用意し、しかも窓を閉めきって顔は出さなかった。プリンセスは明るく朗らかな性格で、馬車で街を通行する時は必ず顔を出し市民に挨拶したり言葉を交わしたりしていたので、この負傷兵の存在や厳重な警戒ぶりに市民たちも戸惑いや違和感を感じる者が多かった。

 近衛兵団副団長、今は団長代理となったアンナは、新女王戴冠たいかんの儀に際して、王宮の警備を命ぜられ残留していた。プリンセス襲撃の密報を受け取り、矢も盾もたまらず救援に向かおうとしたが、しかし王宮を空にすることもできない。やむなく百人長のナルシサに援兵を預け急派する一方、彼女自身は王宮で続報を待っていた。

 プリンセスが帰還するむね、予告がもたらされたのはその前日深夜である。情報を徹底的に制限しているらしく、状況の非常であることが緊張とともに察せられた。

 アルジャントゥイユの入口までプリンセスを出迎えたアンナは、プリンセスの無事に安堵するあまり、自ら馬車の馭者ぎょしゃを買って出た。近衛兵団の団長代理であるのに、彼女にはこういう軽はずみなところがある。

 前枢密院議長で、今は引退し悠々自適の生活を送っているサイモン伯爵という老人がいる。この老人は人物評が得意なのだが、アンナのことを、

「忠誠心に富み、指揮官としてもそれなりに有能だが、少々浅はかである。百人長あたりが器にはふさわしいだろう」

 との酷評を下している。とはいえ、水火を辞せず王や王女を守護する忠誠心に関しては人後に落ちぬため、プリンセスからの信頼は決して小さくはない。

 アンナのエスコートで王宮に帰着したプリンセスは、休養を勧める周囲の進言をしりぞけ、即刻、政府や軍の幹部を招集して情報を集めた。

 出席者は、下記の通りである。


 枢密院議長マルケス侯爵

 枢密院副議長フェレイラ子爵

 神官長兼神殿騎士団長ジルベルタ

 王立陸軍最高幕僚長ネリ将軍

 第一師団長ラマルク将軍

 第三師団長デュラン将軍

 王立海軍最高幕僚長ハチャトゥリアン提督

 近衛兵団長代理アンナ

 枢密院財務局長ベルトラン

 枢密院外務局長シャンピニョン

 枢密院諜報局長マニシェ


 この種の会議は通常、枢密院議長が全体の統制や進行を務め、女王はその結論を追認・裁可するという形式で進むのだが、今回はプリンセスが自ら主導した。そもそも会議の出席メンバーからして、自身で選んだのである。

 会議の冒頭、王の代理たる王女が口火を切ったこともまた異例であった。

「まずは情報を整理しましょう。よろしくお願いいたします」

 その視線を受けたマニシェ諜報局長はにわかに狼狽ろうばいして、どもった。能力はあるが、吃音きつおんなのである。大勢の人前で話すことができない。

「ゆっくりで構いません。今ある情報を並べて、みんなで整理していきましょう」

 プリンセスはあたたかみのある微笑を浮かべ、そのような言葉で彼を勇気づけた。

 マニシェは40手前のひどく太った男で、動きが鈍く、その外見からは頭脳の冴えはまったくうかがい知れない。その役職に就いてからもわずかひと月ほどでしかなく、この場の同席者からも軽んじられることが多かった。発言の機会すら与えられないことの方が多いくらいである。

 プリンセスとは一度だけ面識があるが、それは王宮内ですれ違った時であった。彼が局長として初めて出仕した日で、女王に対して満足に挨拶もできず、宮廷人の憫笑びんしょうを買ったものである。悄然しょうぜんとして宮殿の渡り廊下を歩いていると、向こうからエミリア近衛兵団長のみを連れた王女の姿が見えたので、慌てて道を開け容儀を正し会釈したのだが、

「ごきげんよう」

 と思いがけなくも声をかけられたので、はっと目を上げてしまった。

 女王及びその王族は、たとえ臣下といえど男性へは親密に声をかけないというのが古来の礼儀であったが、プリンセスはそうした慣習から逸脱することが多く、この時も彼の目線を正面から受け止め、にこにこと笑っていた。

 故意に慣例に反したがる横紙破りな性格というよりは、心底、人と気さくに話すのが好きで、そうした性分が礼儀の殻を脱ぎ捨てて外に出てきてしまうものらしい。

「マニシェさんですね。お話は伺っています。これからよろしくお願いいたします」

 その後、どう答えたか彼は自分でもよく覚えていない。恐らくいつもの吃音癖で醜態をさらしたはずであるが、プリンセスは寛容に受け入れてくれた記憶がある。

 以来、マニシェはプリンセスに対し内心で並々ならぬ敬意と忠誠心を持つようになっていた。

 その頃には先の女王の病態も思わしくなく、早晩、プリンセスが後継者となるとにらんでいたので、国内外を問わず、諜報局員を総動員して情報を収集した。多くは、その情報を入手することで、プリンセスが有利になるような情報である。

 彼は内心、自らをもってプリンセス派であると思っていた。

 それだけに、この会議は彼にとって最高の見せ場になるはずであった。

「これまでに集めた情報を報告いたします。まずは襲撃犯の身元ですが、判明している範囲ではありますが、第二師団の手の者として、近衛兵団が現地で自白を得ております。神殿騎士団の一部も加担していたようですが、これは少数で、直ちに鎮圧されております。不幸中の幸いでございました。この襲撃には黒幕がいるとの仮説で諜報活動を進めておりますが、何分にも人手が足りておらず……」

「今分かっている事実だけを述べてくれんか。話が進まん」

 苦情を挟んだのは、枢密院副議長のフェレイラ子爵である。銀色の髪に銀色の口髭、目が細く、厳格でシャープな印象のする、知識人然とした50歳台半ばの紳士だ。

 ここでも、プリンセスが助け舟を出した。

「子爵殿、いいのです。きっと緊張しているのでしょう。マニシェさん、あなたの話しやすいように話してみてください」

 報告と質疑が重ねられ、徐々に情報が整理された。

 襲撃犯は、第二師団の弓兵のうち精鋭として知られた者ばかりと、神殿騎士団の一部。

 これら襲撃犯は全て死んだか、逃げ散って、現在は生きて捕虜としている者はいない。

 そのためこの暗殺を仕組んだ黒幕の存在は明かすことができないでいる。

 ただ、プリンセスの死によって利益を得る者が怪しいとすれば、それは次の三人。

 第二王女でプリンセスに次ぐ王位継承権を持つ、バルレッタ地方のカロリーナ王女。

 第三王女でアルハンブラ地方を領有するコンスタンサ王女。

 先々代女王の第二王女で、先の女王の義理の妹であるトルドー侯爵夫人。

 彼女らの本拠地で、諜報活動を始めていること。

 また第二師団のガブリエーリ師団長が利己的な目的で叛逆にくみした可能性があり、師団の拠点であるカスティーリャ要塞へも諜報員を送っている。

「よく分かりました、貴重な情報をありがとうございます。本当にご苦労さまでした。偵察員の方から報告が寄せられたら、即時で情報を上げていただくようお願いします」

 プリンセスは、誰に対しても敬語を崩すことがない。これは教国においては周知の事実で、大臣らに対しては無論、近衛兵や臣民と接する時もそうであった。物腰が柔らかく、常に周囲を気遣っていて、彼女に声をかけられた者はみな、彼女に客として迎えられているかのような錯覚に陥ってしまう。

 マニシェとしては、情報はあるがそれを雑多な状態で報告してしまい、しかもそれらをプリンセスが的確に整理してゆくのですっかり恐縮していたところ、丁寧なねぎらいの言葉をいただいたので、感激のあまりその脂質が多すぎるほどの顔に血をさしのぼらせて着席した。

 情報共有ができたところで、今後の方針について討論した。未曾有みぞうの事態に意見は容易にまとまらず、先制してカスティーリャ要塞に軍を向けるべきと声高に主張する者、前後の事情が明らかになるまで軽率に動くべきではないと慎重論を唱える者、疑いのある王族や将軍に召喚状を発し動向を探ってはと提案する者、議論は百出している。

 多くの見解が場に出て、会議はついに5時間を超え、列席者の疲労も濃くなったところで、プリンセスが最終的な決断を下した。

「情報が不足しているこの状況では、軍を動かす名分がありません。それにカスティーリャ要塞は国内最大の防衛拠点で、いたずらに敵対心を刺激したり彼らを追い込むのは現時点では得策ではないでしょう。引続き情報を集めるとともに、緩急いずれであれ即応できる準備はしておきたいと思います。陸海戦力は動員態勢を整えてください。特に補給の用意を。戦うにしても、必ず短期で決着をつけます。各国の使節にも、政府は機能していることを伝え、介入を牽制するようにしましょう」

 その指示は非常に明快で、全員が自分の任務を充分に認識することができた。

 大臣、官僚、将軍たちは、忙しく働き始めた。

「プリンセスは英明であられる」

 その実感が、彼らの動きを躍動させた。臣下は有能な主を求め、それに使われることを本能的に喜ぶものである。

 情報収集や軍の動員準備は急速に進んだ。

 そしてプリンセスの帰還の4日後、この暗殺未遂事件においてこの最大の情報源となる人物が王宮を訪ねてきた。

 ロンバルディア教国第三王女、コンスタンサである。

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