第1章-② 忠臣の願い

 エミリアが目を覚ましたのは、事件から2日後の深夜である。

「ルース」

 乾いた声で呼ぶと、傍らの椅子でうつらうつらとしていた新米の近衛兵がねるように寄ってきて、

「団長、無事ですか」

「生きてはいるらしい」

「プリンセスをお呼びします。団長のご回復を心待ちにしていらっしゃいます」

 ルースが飛び出ていって、彼女はじっくりと記憶を整理した。

 エミリアは、教国の正当な王位継承者であるプリンセス・エスメラルダに従い、新女王の戴冠たいかん式に参列すべく、カルディナーレ神殿へと向かっていた。従う者は近衛兵団から選抜した護衛隊と、枢密院議員と呼ばれるいわゆる大臣たち、政治官僚や神官、合わせて500名ほどであった。

 (そうだ、あれは神殿に入ろうとした時)

 覚えている。

 一行は参道で出迎えの神殿騎士団と合流し、密集した人でごった返していた。

 刺客はそこを襲ったのである。相当に弓矢練達の者を揃えていたのであろう、近衛兵や神殿騎士がばたばたと倒れ、とても反撃を号令できる状態でもなかったので、彼女は咄嗟とっさにプリンセスをかばい、神殿へ駆け込もうとした。

 しかし一部の神殿騎士が刺客に呼応して叛逆したらしく、卑劣な同士討ちが発生して、一帯は阿鼻叫喚の修羅場と化していた。

 エミリアはやむなく参道から外れ、山林を指して落ち延びた。その山林で、

 (そうだ、矢を受けて)

 右手で寝具を押しのけ、首をねじって、痛みの甚だしい左ひじのあたりを確認した。

 包帯で幾重にも巻かれた左腕が、上腕の途中から消えている。

 聡明な彼女はすぐに察した。

 絶望感が押し寄せる前に、彼女の忠誠の対象が現れた。

「エミリア!」

 プリンセスが、近衛兵団千人長のヴァネッサとジュリエットを伴って寝所に入ってきたのである。

「プリンセス、ご無事でしたか」

「無事です。あなたに傷を負わせてしまって」

「そのようです。よくは覚えていないのですが」

 片腕を失った、とそう伝えるのがよほど苦しいのであろう。プリンセスはうつむいて黙り込んだ。

 近衛兵団のナンバー3である首席千人長ヴァネッサが、代わって答えた。

「刺客の矢には毒が塗ってあり、肘の骨に命中していて、このファエンツァの町に運んできたときには手遅れでした。腕を切断するほかないとの医師の判断で、やむなく切断したのです」

「刺客の身元は」

「第二師団の弓兵隊と、神殿騎士団の一部であるということで、捕虜が白状いたしました」

「第二師団そのものが、プリンセスに背きたてまつったと」

「不明です。詳細を掘り下げる前に頭を砕き自殺を」

「拷問したのか」

 実際に尋問を担当したジュリエットが、語を継いだ。

「拷問はしておりません。刺客を3人捕えたのですが、町へ護送する途中に一人が川へ身を投げ、もう一人は隠し持っていた匕首ひしゅで喉を突き、最後の一人も尋問の最中、地面に額を叩きつけて死にました。いずれも眼を失った絶望のためかと」

「眼を失った、なんのことだ」

 一様に押し黙った。

 (妙だな)

 何か、言いづらいことでもあるのだろうか。

 ぽつぽつとプリンセスが静かに真相を語り始めた。それは沈着と剛毅で知られるエミリアを驚かせるのにさえ充分な話であった。

 ファエンツァ近くの山林で、エミリアが毒矢を受け、気絶したこと。

 そこへ刺客が殺到し、彼女も死を覚悟したこと。

 どこからともなく現れた盲人が、彼女を守ったこと。

 不可思議な空間が、彼女たちの周囲に出現したこと。

 気付いた時には刺客たちがうめき声を上げ転がっていたこと。

 引き留める間もなく、盲人は去ったこと。

 刺客たちを調べると、どれも引き抜かれるように眼球を失っていたこと。

「きっとあれは術者の術です!」

 プリンセスはその点に関しては興奮を隠しきれなかった。

 しかし、それを脇で聞いているヴァネッサとジュリエットはやや困惑した表情である。どうも彼女たちもエミリアが昏睡している間にその話を聞いたものの、信じることができないでいるらしい。

 当然のことでもある。

 術者は、例えばこのロンバルディア教国の王が代々術者の名乗りを継いではいるが、事実上は形式化しており、実際は絶滅したと言っていい。そもそも術者など、本当に存在したのかさえ疑わしい。

 動転したプリンセスが、錯覚や幻影のたぐいを、そのように解釈しているに過ぎないのではないか。

 しかしエミリアは、必ずしもそうは思わない。

 あの時、数人の刺客が至近に迫っていた。そして彼女が倒れたあと、誰かがプリンセスを守ったのであろう。近衛兵が救援に駆けつけるまでの間の事情について見た者は、プリンセスしかいないのである。何が起きていたとしても否定する材料はない。

 だが、今は術者の存在について真偽を確かめている状況ではない。

「プリンセス、私はどれくらい眠っていたのですか」

「もう2日間以上になります」

「その間、王宮に戻られなかったのは何故ですか」

「あなたが心配で、置いておけなかったです」

「すぐに、戻られるべきです」

「でも」

 プリンセスは、みるみる泣きそうな表情を浮かべた。

 (気弱になられている)

 状況としては、こうである。

 ロンバルディア教国の女王が薨去こうきょされた。プリンセスが、前女王の葬儀を終え、王位継承の儀式のため、カルディナーレ神殿へと向かっていた。それを暗殺しようと第二師団と神殿騎士団の一部が造反した。第二師団の長はガブリエーリという小心な中年の男であり、神殿騎士団の団長もジルベルタという神官長を兼務する初老の女性で、ともに叛逆を企図するほどの野心や才覚もない。恐らく別に黒幕がいるであろう。とすれば、黒幕は暗殺に失敗したことに気付き、時を移さず次の手を打ってくるに違いない。

 ほんのわずかな時間でも、まごまごしている猶予はないのである。

「プリンセス、今すぐ王宮にお戻りください。そして反逆の罪状を明らかにし、速やかに誅罰ちゅうばつを加えて、王国の威権を内外に明らかにするのです。放置すれば、内紛によって国が乱れます。民衆は塗炭とたんの苦しみを味わうこととなるでしょう」

「しかし、大臣や将軍たち、そして民衆が、私についてくるでしょうか」

「弱気になられてはいけません。あなたの恩威で、従わぬ者さえも従わせ、国を一つにまとめなければ」

「できるでしょうか」

「あなたならできます。マルケス議長やラマルク将軍によくはかり、人材を引き上げて、叛乱の芽をむのです。お急ぎを」

 プリンセスは心配げな表情で頷いた。不安の半分は、叛乱軍と戦うこと、そして残りの半分はエミリアを残していくことであったろう。

 その懸念をあえて抑えるように、エミリアは力強く命じた。

「ヴァネッサ。私はこのような姿でもはや護衛任務を果たせない。私の権限で、アンナを近衛兵団長代理に、ヴァネッサを副団長代理に任ずる。一刻も早く王宮にお連れするように」

「承知しました、ではすぐに準備いたします」

「準備の時間はない。直ちに出立を」

「はッ、承知しました!」

 無言のまま、プリンセスはエミリアの右手を包み込むように握りしめ、そして出ていった。

 部屋が無人になってから、汗が湧くように流れ、思わず噛みしめた歯の間からうめき声が漏れた。

 片腕を切断された苦痛は、不屈の闘士である彼女をもってしてもこらえがたいものであった。

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