第1章-① 暗殺事件

 ファエンツァの市場には、賑わいがある。

 古い歴史のある町で、古代の英雄ガルバが少年期を送ったことでも知られている。町の周囲をうねるようにメッシーナ川が流れ、船で少し下流に下りるとキエーザ市街が広がり、一方でやや上流部にはカルディナーレ神殿がそびえていて、ロンバルディア教国においては風光明媚の地として知られている。

 川の流れを利用した農業や畜産、水車小屋による精米、製粉、織物の生産加工などが主要産業で、牧歌的な印象のする田舎町であった。

 町の中心にある市場は、品物が多彩で活気があり、いつも人の行き交いがある。

 名産の果物が所狭しと並ぶ一角は、地元の生活者はもちろん、教国各地やたまに異国からも商人が訪れるので、特ににぎわう。そのなかでも繁盛しているのが、マルコの青果問屋だ。主人は気さくで面倒見のよい男で、子供の相手をするのが好きだった。この男の店に遊びに行くと、何くれとなく果物や菓子や土産など持たせてくれるので、よく子供が出入りしている。

 その日、ミネルヴァ暦1394年6月11日は、ファエンツァの付近に位置するカルディナーレ神殿にて新女王の戴冠たいかん式が催されるというので、儀式に参加あるいは見物するため教国全土から多くの民衆がこの町にも流入してきていた。

 宿場や市場は今や、時ならぬ繁忙で嬉しい悲鳴を上げている。マルコも例外ではない。

 彼が目まぐるしいほどに忙しく働いていると、いかにもおっとりした口調で声をかける者がある。

「マルコさん、今日は忙しそうだね」

「そりゃ当たり前さ。新女王様の戴冠式がこのすぐ近くで開かれるんだからな」

 せかせかしながら答えておいて、声の主を探した。

 たたずんでいたのは、真っ白なさらしで両目を覆い、同じ色の杖を持った盲人であった。

「なんだ、サミュエルかい」

 サミュエルと呼ばれた盲人は、年は22歳。背は比較的高い細身で、184cmほど。紅茶色の髪と白く整った歯が印象的だった。目が不自由ながら、身なりは整っていて、いやしさがない。どこか富裕の生まれかもしれない、と人は思うであろう。だが彼の両親は彼が幼少の頃には亡くなっており、受け継ぐ門地も財産もなかった。にも関わらず貧しい思いをしていないのは、年の離れた姉が気丈で才覚にも恵まれていたことと、彼自身、成人してのちは富豪の子息の家庭教師をするなど、暮らしに困らぬだけの仕事があったからだ。

「先月の末に女王様が崩御されたというので、国じゅうが騒いでるよ。喪中だからみんな落ち込むところなんだが、戴冠式とあって各地から人が集まるし、この町はかえっていつもよりにぎわってるさ」

「そうだね。人がたくさんいて、僕はよけるのが大変だよ」

「大変だろう。目が開いてたって難儀なくらいだ」

 サミュエルは愉快げに笑った。その口元がいかにも爽やかで、この青年の目が開いていれば、さぞ若い娘たちの視線を集めたに違いない。

「さて、今日はどうするね」

「リンゴとラズベリーがほしいんだ」

「姉さんのお使いだね。具合はどうなんだい」

「うん、今日はいい方かな」

「お大事にするようにな。少しまけて、200バルでいいよ」

「ありがとう」

 盲人は袋を大事そうに肩にかけ、杖で地面を叩きながら、家路に就いた。市場を抜け、住宅地に入ると、喧騒けんそうがだんだんと遠くなる。石畳の町を出て、農道を通り、さらに山の方へ向かい杣道そまみちに入る。彼はほかに住む者もない山の中腹に小さな民家を建て、そこに姉と二人で暮らしながら、週に幾度か、稼ぎのため片道1時間ほどかけてファエンツァの町に通っている。

 仕事は家庭教師や臨時で呼ばれる子守などで、その博識や人柄の良さがこの町の富裕層では評判だった。数学、物理、歴史、哲学などに明るく、学識の深さや知見の広さでは、あるいは国都アルジャントゥイユの博士や研究者たちをも凌駕するかもしれない。

 彼を知る者のあいだでは有名な逸話がある。

 ドゥシャン先生は目が見えないのに何でもよく知っているのは、本に書いてあることを人に読んでもらい、その全てを一度で記憶し理解しているからだ、と聞いたある教え子が、友人たちを集め、同時に5冊の本を彼に読んで聞かせた。すると、彼はその全てを順番に暗唱し、しかもそのいちいちに注釈を入れ、大要を子供たちに説明したので、皆が驚嘆した。

 天才の盲人として、この田舎町では名高いのである。

 ちなみに、彼の姉リリアンも才女として有名であった。こちらは弟が持っているような学問的な才能ではなく、芸術、特に音楽の分野で秀でていた。ビウエラやリュートといった弦楽器の演奏技術では幼くして神童と呼ばれ、その名声は国内の上流貴族のあいだでは響いたほどである。

 しかし、耳が聞こえない。

 それに社交の場に出るのを好まず、貴族や王族に呼ばれて華やかな宮廷に出入りするよりも、片田舎の町で人に曲を売ったり音楽を聞かせ、それで自分と弟が食うに困らねばそれでよい、という考えのようであった。むしろ、それ以上に人との関わりを持つことに嫌悪や恐怖があるらしい。

 だから、人里離れた山道に小さな家を持って、半ば世捨て人のような生活を送っている。

 弟のサミュエルも、そうした姉のややヒステリックなほどの生活観の影響を受け、彼自身はさほどでないにしても、姉思いであるだけにその生き方に従い、清廉で慎ましい生活を送っている。

 杖で足元を確かめ、斜面を踏みしめつつ歩いていると、彼は自らの杖と足音のほかに、かすかに人の声を聞いた気がした。暗闇のなかで一生を過ごしてきただけに、聴覚や方向感覚が特異な成長をするものなのか、音の源を探り、なおも歩いた。

 遠く、人の気配がする。

 (なんだろう)

 彼は、立ち止まった。この小山は、天地ことごとく彼の庭も同然である。

 ちょうどこの時、山林のなかの道なき道を駆ける一団があった。

 事件が、進行している。

 追われる者、女が二人。

 一人はチョハと呼ばれる戦闘服で、足先のショートブーツにいたるまで全身が黒い。教国近衛兵団の正装である。左腕に赤い腕章を着用していて、これは近衛兵団の団長たることを示している。

 名前はエミリア・マルティーニ。

 年齢28歳。ロンバルディア教国においては知らぬ者はいないほどの高名な剣士である。長身、髪はブロンド、セルリアンブルーの瞳、両目の下に目立つそばかすがある。この国は代々、女王が治めていることもあって、身辺の警護や日常の世話にあたる上級近衛兵はみな女性である。

 いま一人は丈が長く裾の大きく広がったベージュのプリンセスドレスをまとった若い女性であった。

 その二人が、手を握り合い、必死で走っている。しかしエミリアの護衛する女性はドレスで足元が見えない上に、儀式用の靴なので思うようには動けない。

「プリンセス、お急ぎを、追いつかれます!」

 彼女たちは逃走しているのだった。

 抜き身の剣を引っ提げながら、エミリアはプリンセスと呼ばれたその女性を守り、追っ手から逃れようとしている。

 しかし、女性がつまずき、転倒した。

 エミリアが抱き起こそうとしたところ、その左肘にうなるような速さで矢が命中した。

 ぐっ、と仰け反り、踏みとどまって、首を向けた。

 そこに、刺客がいる。右腕を一閃した。

 持ち主の手を離れた長剣がまるで稲妻のように虚空を駆け抜けて、刺客の胸を貫いた。

 と同時に、エミリアも昏倒した。女性を護衛しつつ追っ手から逃げ続け、疲労困憊こんぱいのところに重い矢傷を受けたので、さしも腕達者として知られた彼女もここで人事不省に陥った。

「エミリア!」

 護衛される女性は悲鳴を上げ、エミリアの手に引きずられるようにして、その上体の上に折り重なって倒れた。

 彼女は足音を聞いた。

 北から三つ、南から一つ。

 いずれも走っている。

 気絶したエミリアを守るようにして、彼女は顔を伏せ、目を強く閉じた。死を覚悟したのであろう。

 そして、南から一足早く駆け寄った足音が、彼女のすぐそばで止まった。

 この時に経験した感覚を、彼女はついにその生涯で満足に言語化することがかなわなかった。

 不可思議としか言いようがない。

 一瞬、水の上に浮かぶような浮揚感が全身を包み、淡い光が周囲に満ちた。音もなく、風もなく、においもなく、暑さも寒さもない、完全に清浄で澄みきった空間である。

 はっと顎を上げると、彼女に背中を見せて佇む者がいる。杖を横にして胸の前に突き出し、その異空間の中心にあって、明らかに彼女を守ろうとしているようであった。

 ここから起こったことは、彼女にも理解できず、説明のしようもない。

 ただ彼女が目撃したのは、その者が左手を突き出し、鋭く引くと同時に、異空間は霧が晴れるようにして消え、複数の野太い絶叫がこだましたという、それだけである。

 見ると、三人の追っ手が断末魔のような叫びをあげながら、近くに点々と転がっている。

 彼女を守ったのは、なんと盲人である。

「邪気が消えました。もう安全そうですね」

 それだけ言い残して、盲人は去った。

 やや呆然とするうち、近衛兵が三々五々集まってきて、彼女は厳重に守られながら、ファエンツァの町に退避し、そこで逗留することとなった。

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