第35話 発動と代償

無駄な力を抜くと逆に全身の感覚が鋭くなる。

 空の青さ、溶岩の熱、風の流れ、魔法の残滓。そんなものがはっきりと意識できる。

 生まれた土地、家族、クリスティーナとの出会い、魔法に目覚めたこと。今まで生きてきたことがよみがえってきて、その中で剣術の授業をふと思い出した。

 必死に素振りして、型を稽古して。実戦で必死に繰り出す剣はアルバートたちに当たるどころか掠りさえしない。

 でもフラフラになって、ふっと、力を抜いた時。打とうとも、当たるとも、当ててやるとも思わず。自分が動いた感触すらなく、ただ無意識のうちに剣を突き出す。

 実力が上の相手を倒せるのはその剣しかなかった。倒そうと必死の思いで出した剣は掠りさえしないのに、フラフラの状態で何気なく突き出した剣に限って当たるのだ。

 今まで最上位魔法を使おうと必死に努力してきた。

 古代語、魔法の修業、剣術。考えられる限りの努力と工夫を重ねた。

 いざ使用しようとするときは、神経を限界まで研ぎ澄ませてきた。

 でも、使おうとするから逆に使えなかったのか?

 剣術みたいに、何かしてやると思う気持ちが逆に足かせになっていたとしたら?

 アデラ様が最上位魔法について話してくれた時のことを思い返す。

 喉に引っかかっていた小骨が、外れたような気がした。

 改めて杖を構えなおす。剣術と全く同じ構えで魔法を使用する構えじゃない。周囲からは奇異なものを見る視線が集まる。

 でも今の僕には、これが一番しっくりくる。

 火傷しそうな熱気、視界全てを囲む茜色の輝きと点在する黒い岩。

 命を奪いそうなそれらの存在を、敢えて無視する。僕の周りで倒れている人のことも、愛しい婚約者のこともこの瞬間だけは頭から除外した。

 カーラのセリフを、ふと思い出す。


『願いが叶うとか、神様が助けてくれるとかそんなことを思って祈りません。祈っても願いが叶わない、助けてくれない、そんなことはわかっています』

『でもそんな、自分に都合のいい存在が神様のはずありません。たとえ身を滅ぼすことになっても、慎んで祈りをささげる。ただそれだけです』


 神様なんて。そんな風に信仰は捨てたけど、この瞬間だけは心の中で祈りを捧げる。

 余計なことをすべて、頭から消し去ってしまえるように。

 杖を軽く振る。アデラ様を思い出す。噴火を目の前にしても、まるで動じなかった。

 恐れるな、力むな、余計なことを考えるな。

 アルバートから一本取った時と同じだ。ただ今までの積み重ねを信じて無意識に体を動かせ。

 何か、体の中でつながった感じがした。

 見えない存在に導かれるかのように、杖が動き出す。同時に、最上位魔法のイメージが一気に流れ込んでくる。

「テッラ、ウイリディス、」

 今まで最上位魔法の手がかりは誰よりも探し求めてきたつもりだ。その一環として学んだ古代語が、一種のメロディとして組み上がっていく。

 背筋が総毛立った。

 空間が歪むほどの魔力が、杖を中心に渦巻いていく。蒼き山を覆いつくすほどの溶岩が児戯に思えるほどの圧倒的な魔力が、大地へと吸い込まれていく。

 こんなものを、アデラ様は制御していたのか。

 もし制御を誤れば、災厄どころの騒ぎではなくなるだろう。

「っ!」

 膝が崩れ、立っていられなくなった。疲労が限界に来たか。それでも杖を握る手は離さず、導かれるまま動かし続ける。疲労と暑さ、魔力の制御で頭に霞がかかる。

 同時、古代語の詠唱が一瞬途切れた。

 まずい、まずいまずいまずい。

 でも次に来るべき古代語が浮かんでこない。頭がぼうっとして、思い、だせない。

 とうとう詠唱が止まった。

 何かとつながった感覚が、体の中から消えていく。必死に手繰り寄せようとするけれど、目隠しして物探しをするかのようで全く手ごたえがない。

「ソルム、シルウァ」

 春風のように澄んだ声が、僕の言葉に続く。

 地面に倒れ伏してしまったカーラが、顔を上げてシニカルに笑みを浮かべていた。

「まったく、あなたはしょうがない人ですね。こんな時に古代語を忘れるなど神への信仰が足りない証拠です。神に仕えるシスターたる私はたとえ臨終のときであっても忘れません」

 切れかけていた何かが、再びつながった。

 古代語の詠唱が終わり、僕は土属性最上位魔法の名を唱えた。


「ランド・マスター」


 アデラ様の時にも感じた、空間が歪むと錯覚するほどの膨大な魔力。それが一斉に、土属性魔法の主戦場たる大地に流れ込む。

 土属性の最上位魔法は勿論使ったことがないし、見たこともない。でも制御に何ら不安を感じなかった。

 熱気で足を火傷しそうなほどに溶岩が迫る中、僕たちを囲む地面が陶器にヒビが入るように裂けた。

「これだけですのっ……?」

 アンジェリカの一言は、最後まで語られることはなかった。

 亀裂は見る間に大きく、深くなる。底が見えないほどの漆黒となる。僕らを取り囲む溶岩が、漆黒の縁に吸い込まれるように流れ落ちていった。

 蒼き山のあちこちに漆黒のヒビが入っていく。

 祭壇も、食料も、全てを飲み込んでいった溶岩が逆に大地に飲み込まれていく。

 まるで黒い奈落が溶岩を飲み干そうとするかのように、あっという間に僕たちの周りを囲んでいた茜色の輝きがその量を、光を減らしていく。

 やがて、僕たちの周りで地表を覆いつくしていた溶岩はすべて跡形もなく消えていた。固まりかけていた表面の黒い岩さえもなく、蒼き山は噴火前の砂と軽石に覆われていた状態に戻った。

 それと共に、呼吸するだけで喉を焼かれそうだった熱が徐々に引いていく。

 徐々に、肌寒さを感じるほどの気温が戻る。暑さと疲労で倒れていた人たちが杖を握り、顔を上げた。

 はじめは死んで天国にやってきたのか、という人も多かった。だが他の魔法使いやアンジェリカの言葉で徐々に死んではいないことを理解していく。

「た、たすかったのですか?」

「そのようですわね。これが、最上位魔法……」

 徐々にざわめきが広がっていく。最上位魔法? 誰が? アンジェリカ様だろ?

 僕が使った、と大声で名乗りを上げたかった。でもそうするわけにはいかない。

 まだ、終わってないからだ。

 周囲の亀裂が徐々に小さくなるとともに熱が引いていき、残った魔法使いの数名が周囲を探索し始める。その中の一人が、悲痛な叫び声をあげた。

「町が、みんなが!」

 急斜面越しに見えるのは、ふもとの町に襲い掛かろうとする溶岩。

 アールディス家の屋敷も、眼下に広がるローモンド湖も、湖や街道沿いの町も。

 複数のルートを通って下る溶岩は、湖や街を囲むようにして広がっていく。

 ここからではアリの群れくらいに見える山を下って避難していた人々。彼らのすぐ背後にまで茜色に輝く悪魔が迫り、すべてを焼き尽くし、飲み込まんとしていた。

 でも、大丈夫。

 切れ目を入れたチーズが裂けていくように、蒼き山に入った亀裂が下へ下へと広がっていく。

 そのまま人々を、町を、湖を襲おうとしていた溶岩を苦も無く飲み込んでいった。

 以前風の最上位魔法を見た時にも感じたが、最上位魔法は規模が桁外れなのに人や町に被害をほとんど出さない。

 大地の亀裂そのものが意思を持つかのように。溶岩や冷やされて固まった岩だけを飲み込んでいった。

 蒼き山の山頂からは未だ、溶岩が流れ出ている。灼熱の大河となって山を下ろうとするがそのたびに大地に生じた底の見えないほどの亀裂が飲み込む。

 大地に黒い稲妻が走り、茜色の悪魔と戦っているかのように見えた。

 やがて全ての溶岩が吸い込まれたところで、漆黒の裂け目が徐々に閉じていく。

 後には何事もなかったかのように、ただ風の音だけが響いていた。

 完全に固まって黒い道と化した溶岩だけは戻らなかったけれど、蒼や黒の軽石も、ふもとに見えるローモンド湖をはじめとした湖も、澄んだ空も噴火前と同じだ。

「助かった、んですの?」

 呆然とつぶやいたアンジェリカの言葉を皮切りに、周囲にどよめきが広がっていく。やがて倒れていた人たちがゆっくりと体を起こし、天を仰いだ。

「もう、大丈夫?」

「神が我々を救ってくださった……」

 クリスティーナはわずかな笑顔を見せ、カーラは手を組んで大地に祈りを捧げていた。

 アンジェリカは隊列を率いていたリーダーらしく、すぐに周囲の状況を把握した。ヒノキの杖を掲げ、勝ちどきを上げさせる。そのまま負傷者を優先して町の医者に見せるよう指示を出し、下山の準備に取り掛かる。

 僕はそれを遠くの世界の出来事のように見ていた。

 今の僕にあるのは手に残る、トネリコの杖の感触くらい。

「やっぱりヴォルトは、すごい」

 クリスティーナの声の方を振り向くが、彼女の顔が見えない。目がかすんで、息も苦しくて。

 体に力が全然入らない。立っているのかどうかすらわからないほどに意識があやふやになる。

 意識が闇に落ちていった。

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