第36話 忘れて

「起きた」

 目が覚めると、地面が揺れているのを感じた。噴火前の地震を思い出し全身に緊張が走る。

 だが目の前に天井、頭には最上質のクッションの感触。横目に見える机、そこに置かれたカードゲームや水差しの状態からするに、危険な揺れではないようだ。

 ここは、見覚えのある馬車の中だ。

 カーラ、アンジェリカの姿も見えるが、アルバートの姿だけは見当たらない。

 僕は座席に寝かされており、クリスティーナが膝枕してくれていた。彼女の顔半分は水着の時にも見えた大きな胸に隠れている。

 クリスティーナはそれ以上何も言わず、僕の頭を撫で続けてくれた。

 彼女の柔らかな指が、服越しの香りが、ただ心地いい。

 でも少し気恥ずかしいのと、状況確認のために軽く体を起こそうとするが、まるで自分の物でないかのようにうまく動かない。

「まだ起きないでくださいな。あなた、最上位魔法を使用してから丸三日、眠り続けていましたのよ」

「三日も?」

「町は無事だったはずだけど…… 一緒に溶岩を食い止めた人たちは? そうだ、アデラ様は? アルバートが運んだ後、どうなったの?」

「落ち着いてくださいな、順を追って説明いたしますわ」

「とりあえず町は無事ですわ。人も、火傷や転倒して擦り傷を負った人はいるけど、死者はないようです。叔母様は屋敷で医者に診てもらいましたが、今は落ち着いていますわ」

 アンジェリカの報告に胸をなでおろすと、服がさっぱりしていることに気が付いた。蒼き山で溶岩と戦っていたから、相当汗臭いはずだけど……

「私が、着替えさせた」

 僕の考えを読み取ったかのように許嫁がそう答える。クリスティーナは眼を逸らさず、淡々とした口調。顔が真っ赤になるわけでもない。ただ、僕の頭を撫でた時何かを我慢している感じがした。

「ならなんで、僕は馬車の中……?」

「溶岩が突如流れを変えたことは、街の人間誰もが見ていますのよ。叔母様の使う『ボルケーノ・マスター』とは明らかに違いますから、今頃誰が最上位魔法に目覚めたかで持ちきりですわ」

「あなたが使ったことはあの場にいた者たちしか知りません。緘口令を敷いていますけど、それでも直に明らかになるでしょう。そうしたら大騒ぎになりますわ」

「一度目撃者のいない王都に戻り、何食わぬ顔で過ごしてくださいませ。念のため寮の周りを見張らせておきます。早いうちに式典を執り行うよう、国王陛下に奏上しておきますわ」

「緘口令を敷いたんじゃないの?」

「こういうことは立場を明確にすることでトラブルを防ぎやすくするのですわ。王族から認められた魔法使い、ともなれば近寄りがたい存在となります。わたくしの縁談については、また日を改めて相談しますわ」

 そういえば、僕たちはアンジェリカの縁談相手を見定めに来たんだった。

「アルバートは戻ってこなかったの?」

 行きと同じ馬車の中なのに、一人だけ欠けているのが妙に気になった。

「アデラ叔母様を逃がすためとはいえ、自分だけ名馬を使って山を降りたことが悪い噂となっていました。特にわたくしとの口論を耳にしていた者たちからの評判が悪く。居づらくなったようで、一足先に王都に戻りましたの」

 そうか…… まあ色々と嫌な奴ではあったけど、少し気の毒だな。

「……それにしても、どうやって最上位魔法を使ったの?」

 膝枕された僕の顔の上、膨らんだ胸越しにクリスティーナが話しかけてくる。

 どきまぎする胸の高鳴りを押さえながら、使った時のことに頭を巡らせた。

 ふと力を抜いたこと。剣術のコツとの類似点、祈りを捧げたこと、そして何かと繋がった感覚……

 言葉にしようとするけど、上手く言えない。極限状態での思考を、感情を、表現できる上手い言葉が出てこない。

 最上位魔法に決まった使い方がないとか、アデラ様が上手く説明できない、と表現した気持ちがこうなってみるとよくわかる。

「ごめん。僕もアデラ様と同じだ。よくわからない」

「そう」

 クリスティーナは残念がることも僕を疑う様子もなく、ただ笑った。

「でもシスターたる私が古代語を教え、あなたが祈りを捧げたら発動しました。やはり神が授けたのでは」

 カーラらしい表現だ。

 でもそうだろうか。僕は余計なものを考えないように、祈りを唱えただけだ。

 神をいいように利用した、といえなくもない。

 でも、あの体の中で何かがつながったような感覚。あの見えないし聞こえない、わずかな感覚だけの存在を神と表現する人もいるだろう。

 あれが決め手になった気がする。

 それならば、クリスティーナやカーラが使えるようになる日も来るかもしれない。



 数日後、王都に到着した。

 星の光を散りばめて流れる運河も、月の銀色の光に照らされる教会の鐘楼も変わってはいない。つい数日前に死ぬと思ったことが夢のように思えてくる。

 僕とクリスティーナは寮の近くで馬車を降りる。整備された石畳の感触が、足に懐かしく感じた。

「では式典の日まで、お気をつけて。まあ今のあなたなら、まず不覚は取らないでしょうけれど」

「気を付けるよ」

「クリスティーナさんも、彼のことをよろしくお願いしますわ」

「任せて」

 馭者の一鞭とともに馬がいななき、夜の王都に車輪が石畳を踏みしめる音が響く。

 式典の準備や国王陛下への報告で色々とやることがあるらしく、カーラは教会関係者への周知などを手伝うらしい。

 馬車に彫られたアールディス家の紋章が、建物の陰になって闇に染められ、そして見えなくなる。

「僕たちも帰ろうか」

 王城へと向かう馬車を見送って、僕たちも歩き出した。

 城門と王都をつなぐ大通りは夜になっても明かりのための火が焚かれ、出店の明かりで昼のように明るい。

 だが一歩外れるともはや別の国だ。

 通り沿いの家々から窓越しに漏れる明かりはほの暗く、家の陰はもう足元すら見えない。

 ここに来るまでに、色々なことがありすぎた。

 数日前この王都を出るときはアンジェリカの縁談の相手を見定めて、アデラ様に最上位魔法について聞きに行くだけと思っていたのに。

 出発早々アルバートがクリスティーナになれなれしくして、彼女がそれをはねつけて。

 カードゲームやビリヤードで遊んで、妹からの手紙を読んで。 

 アデラ様と出会って、地震が起きて、翌日湖で遊んでいたらクリスティーナがまた襲撃され。

 慰霊祭に参加したら蒼き山の噴火が起きて、最上位魔法を間近で見て。

 アデラ様が血を吐いて、みんなパニックになって、死ぬかと思って。

 クリスティーナが初めて好きって言ってくれて、そして最上位魔法に目覚めた。

 そしてこれから。

 アンジェリカが式典を急ぐ、と言っていた。昔見た晴れの舞台に、今度は僕が主役として立つ。そうすると…… 故郷の家族が来るんだろうか。妹と、そして、父親。

「ヴォルト」

 クリスティーナの声で僕は我に返る。いつの間にか寮の敷地が目の前にあった。

「家族との関係は、知ってる。でも夢がかなった今くらい、幸せに浸っていい」

 そう言って白く細い指を僕の指にそっと絡めてきた。

 水色の髪が触れそうなくらいに、顔を近づけてくる。

「嫌なことは、忘れて。私で…… 忘れて」

 僕の許嫁は、睫毛を震わせながらそっと目を閉じた。

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