第20話 鬼百合

 馬車がローモンド湖に近づくと、段々と傾斜が緩やかになっていく。


 湖そのものも観光地となっているのか、寄せては返す波打ち際には丸太や杭で作られた簡素な船着き場があり、観光客や住人らしき人たちが短い列を作っていた。


 銅貨を漕ぎ手に渡して舟の操縦を頼んだり、自分で漕いだりして幾分涼しい風が吹き始めた夕暮れの湖を楽しんでいる。


 クリスティーナと二人で乗れたら、楽しいだろうな。


 アンジェリカも婚約者と乗るんだろうか。


 そんなことをつらつらと考えていると、茜色に染まり始めた湖の周囲を回るように馬車は進路を変え、脇道へと入っていく。


 脇道と言っても馬車がすれ違えそうなほどに広い道幅があり、道の両脇には手入れされた生垣がある。蒼き山をバックにした屋敷が、生垣の向こうにそびえていた。


「あれが、最上位魔法の使い手の住む屋敷」


 緊張のあまり唾を飲み込んだはずなのに、口の中はからからに乾いていた。


 やがて馬車が止まり、馬が軽くいななく声が聞こえる。


 屋敷が目の前にあるが、まだ辿りついてはいない。


 土魔法を使ったわけでもない。


 なのに軽く地面が揺れ、街道沿いの家々の木戸がカタカタと音を立てた。


  だがすぐに収まり、何事もなかったかのように馬は再び歩み始める。道行く人々も気にする様子はない。


 やがて、最上位魔法の使い手が住む屋敷が目の前に迫った。


 屋敷を囲む生垣は、赤の花弁に黒い斑点を散らしたオニユリ、紫色の麦穂のように風にそよぐラベンダー、そして炎のように赤い花が群がるように咲くシャクナゲなど。


 王都では見られない、山あいでしか見られない様々な草木が、屋敷と使い手を守っているかのように咲き誇っていた。


 眼下に望むローランド湖は、赤い夕陽を映すかのように湖面を染め上げている。


「綺麗」


 水色の髪をかき上げながら、クリスティーナが呟く。死んだ魚が水を得たように、目元も口元も緩んで、穏やかな表情を浮かべる彼女。


 君の方が綺麗だよ、なんていうセリフは僕に似合わないので胸の奥にしまい込んだ。

 カーラやアルバートも目を細めて見入っているが、何度か来ているせいか僕らほどの反応じゃない。


 馬車が止まり、大勢の使用人たちが整列している屋敷の中庭で僕たちは馬車を降りた。


「アルバート様! アンジェリカ様! お久しぶりです!」


 最前列に控えていた初老の執事が、二人の姿を認めるや感極まったように声を上げた。


 そのほかの使用人たちも一人の例外もなく、アルバートやアンジェリカを見て笑っていた。二人とも使用人にも慕われ、歓迎されているのがありありと伝わってくる。


「カーラ様も、お久しぶりです」


 続けてカーラを落ち着いた声が出迎える。


「あ、ありがとうござい、ます」


 カーラも何度か慰霊のためにこちらに来ているためか、歓迎されているものの当人の笑顔がぎこちない。口元が軽く引きつり、馬車から降りようとする際に危うく足を

踏み外しそうになった。


 整列した使用人、湖を望む屋敷を視界に収めて圧倒されるかのように縮こまっている。


 使用人たちに笑顔であいさつしながらも、ちらちらとアンジェリカに視線を送っていた。


 続けて僕たちも馬車を降りる。


 一瞬。


 ほんの一瞬だけど、僕たちに対し値踏みするような、嫌な視線を感じた。


「ヴォルト様と、クリスティーナ様ですね? ごゆっくりとおくつろぎください」


 でもそれも一瞬のことで、女性の使用人が頭を下げながら四角い箱のような形の革

の鞄を受け取り、頭を下げた。


 慇懃だけど、アンジェリカたちとの態度の差を感じる。


 普通なら感じない程度の差だろう。でもアンジェリカ達とは家柄が違うし、カーラのようにある程度顔見知った間柄、ということもないから当然のことだ。


 人間なのだから相手によって態度を変えるのは当たり前だ。


 それにもう慣れている。下の方の貴族と、貴族と平民の子に相応しい態度は。

でもやっぱり、気持ちのいいものじゃない。


 そんな時、ふと使用人たちの間で何人か目立つ人たちを見つけた。前掛けが土にまみれて、背中や裾に払いきれなかったのか緑の葉が付着している。


 他の使用人たちが輝かんばかりの仕立ての服を着用しているので、差が際立って見えた。


 庭師の人たちだろうか。庭園の木々を刈り揃え、雑草を抜き、美しい花々を植える。


 土にまみれるから他の使用人たちより下に見られることが多い。マギカ・パブリックスクールを思い出す。


 学園と屋敷。子供の社会と大人の社会。いつでもどこでも、下に見られる人間がいるのは変わらない。


 でもちょっとした変化を与えることは、できるはずだ。


 僕は屋敷の入り口に向かっていく列から少し外れ、庭師の人に声をかけた。


「屋敷の庭、見ましたよ。ラベンダーやシャクナゲ、それにオニユリ…… なかなか見ることがない花が見られて、嬉しくなりました」


「あの花がオニユリだと、わかるのですか?」


 他の使用人たちと比べ少し俯き加減に感じた庭師の人たちは、顔を上げて目を見開いた。


「はい。王都ではまず見かけませんが、僕の家の領地は北の方なので、平地でもよく見かける花です」


「ありがとうございます…… 初見でそこまで」


「花の部分が真っ白な普通の百合に比べて、赤地に黒い斑点があるからあまり好まれない場合もありますけど。鮮やかで生命力に溢れてるっていう感じがして、僕は好きです」


 庭師の人は、僕に対して深々と頭を下げた。この屋敷の使用人では、始めて他意のないお礼をされた気がする。


 儀礼や建前で頭を下げられることはあっても、こういうお礼のされ方は滅多にないから、照れくさく感じる。


「花が好きなのですね。とても柔らかく、笑っておいでですよ」


 庭師の人にそう言われて、僕は自分の頬を触る。


 笑っていたのか。笑顔で、声をかけていたのか。意識して笑顔を作るのは苦手だけど。


 こうして誰かに笑ってもらうことは、できたのか。


「……自信を持って」


 いつの間にか僕の近くにいたクリスティーナが、耳元でそう囁いた。

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