憧れの甲子園
決心
降り積もる雪。部屋から湧き上がる歓声。
北海道美唄(びばい)市に住む中学生、田中恒成は1人拳を握り喜んだ。
スマホに映し出された「合格」の文字。その下には、受験成績が良好であるため学費を免除するという旨の文章が踊っていた。
「お母さん!合格!しかも学業特奨生!!!」
高校野球の強豪である北山高校は学業でも道内随一の難関校で、高校球児はスポーツ推薦の子が多い中、エースとはいえ中学の弱小軟式野球部だったためスポーツ推薦は受けられず一般受験で挑戦したが、無事合格、しかも特奨生につき学費全額免除というおまけつきの成績で終えられて良かったと恒成はほっとした。
恒成は小さい頃からプロ野球選手が夢であった。
9歳で少年野球チームに入り、テレビの中のプロ野球選手だけを憧れて野球を続けてきた。
10歳で初めて公式戦で三振を奪った時にピッチャーを志して以降は父親が構えるミットに投げ込む練習を一日中繰り返した。
そして野球を教えてくれた父親が11歳の頃交通事故で亡くなってからはプロ野球選手への憧れは渇望へと変わり、対する思いも一層強くなる。恒成は絶対にプロになってやるという強い信念で練習に打ち込むようになった。
自分で木の板を切り抜いて作った的と、父親が遺してくれたグラブとボールとバット。それだけを使いひたすら、外が暗くなっても腕を振り続け、練習に励んだ。毎日10球、20球、30球、50球。
その努力、そして誰にも負けない練習量はぐんぐん実を結び、いつしか彼は所属していた少年野球チームのエースとして、チームを勝利へ導く大切な存在となっていた。
しかし、それはあの日に1度打ち砕かれた。
それは小学校6年生。少年野球の道大会決勝、中標津(なかしべつ)戦で起きた。
最終回である7回、ツーアウトまで完全試合のペース。8球粘られ3番の水口にフォアボールを選ばれると中標津の4番、高木駿太と対峙することになった。
屈指の強打者高木。彼は心を鎮め落ち着いて投球するも、制球が定まらずフルカウントにまで粘られてしまう。
粘る。粘る。いつしか20球も粘られていた彼の手には、汗が滲んでいる。
そして投じた21球目。恒成の投じた渾身の高めストレートは彼のバットに吸い込まれた後、空を斬りスタンドへと消えていくのだった。
あのサヨナラホームランは恒成の中では苦い記憶として頭の中に残っている。3年以上経った今でも、あの甲高いバットの音が思い出されて青い気持ちで満たされる時がよくあるくらいだ。
あの後、中学入学まで野球をやる気は出なかった。もうやめようとさえ考えたくらいだったが、父親の顔を思い出す度に強い気持ちが生まれ、中学でも野球を続けようと、そう思うようになった。
中学では軟式野球部に所属した。貧乏が故にシニアリーグに入ることが出来なかったからだ。
恒成は毎朝7時半に学校に出て練習しては、夕方も入れて毎日3時間練習を重ね続けた。そして、家に帰ってからも毎日硬球を50球的に投げ込む練習。これをどんな時でもやり続けた。
晴れの日、雨の日、雪の日。球の精度をより高く求め続け、理想を求めて猛者のように腕を振り続けた。
それでいて勉学も怠らず、自習を毎日続けながら見事一般受験で特奨生入学を果たしたのである。
家族全員が喜び、彼はその中で改めて決心を固める。
辛く、限りなく果てしない挑戦の始まりだ。
「絶対に、プロになってやる」
◇◇◇
「絶対に、十勝農業に行かせてください!」
そう父親に頭を下げて頼んだのは、中3の雪積もる真冬。
北海道中標津町に住む高木駿太は、人生をかけた挑戦に対しての決意を強く、そして力強く固めようとしていた。高校野球強豪校である十勝農業高校への進学に対しての決意である。
駿太は小さい頃から荒い性格で、野球以外は何をやっても続かず、全て三日坊主で、いや一日も経たずに飽きるようなそんな少年であった。
そんな彼が9歳の頃、友達の水口隼人に連れられて見に行った少年野球。帰ってすぐ「やりたい!野球」と親に言うもプロ野球を見て日々狂う同僚を見ていた父親は野球だけはだめだと切り捨てた。何度言っても、頑なに。
父親も母親も、三日坊主の駿太はそのうち飽きてやりたいと言い出さないだろうと思いそのまま切り捨てて彼の意見を聞こうとしなかった。
しかし、駿太は野球だけは三日坊主で済まなかった。7日、10日。永遠にやりたいと言い続け、それに根気負けした父親は車を転がしてスポーツショップに行き、駿太にバットとグローブ、そして野球ボールを買ってあげたのである。
監督に強いリーダーシップと指揮力を買われた駿太はキャッチャーに抜擢され、日々マスクを被りピッチャーとバッテリーを組み続けた。
そして打撃面でも毎日の素振りと空き地での隼人との自主的な打撃練習を忘れず、成長を見せ、小4で既に公式戦本塁打を放つ成長を見せた。
しかし親の野球嫌いが収まることはなく、全くの無関心であった。援助はしてくれたが完全な放任主義で、駿太は「絶対に親を振り向かせてやる」という思いを胸に野球を続け、キャッチャーミットとグローブ、バット、ボールを肌身離さず持ち、野球に打ち込んだ。
そんな駿太は小6で荒い性格ながらもチームメイトを引っ張る存在としてキャプテンに就任し、チームを全国ベスト8の快挙を成し遂げるまでに導いたのだが彼には小学野球で今でも忘れられない、プロをより強く目指すきっかけになった試合がひとつあった。
北海道大会優勝を決め、全国大会出場への切符を手にした美唄戦だ。
最終回のツーアウトまで完全試合のペースで相手エース田中恒成に試合を進められる。
彼も当然2凡退と落ち込む結果となっていたが、7回裏ツーアウトから3番の隼人が8球粘った末にフォアボールで出塁。ホームランで逆転サヨナラのチャンスで彼は相手エース田中と20球に及ぶ激闘を繰り広げる。その後、田中が21球目の高めストレートを投げたその瞬間、思いっきりバットを振るとバットに的中。快音とともにボールはスタンドに消え、プロへの憧れを強い目標へと変え、自信を持って少年野球を終えることになった。
中学ではシニアリーグに所属し、強打の正捕手として名を馳せた。
相棒である隼人との猛練習で守備、打撃両方で大きく磨きをかける。荒い性格ではあったがとにかく練習に夢中で、1度も朝練に遅れたことはなく、毎日合計5時間は練習を積み重ねていたと言う。
そして4番キャッチャーとして中学通算27本塁打の成績を残し、全国大会出場とはならなかったが北海道大会ベスト4へとチームを導いた。
どんな日でも練習を積み重ねたのが実を結び、高校野球の強豪で何度も東北海道地区代表として甲子園に出場している十勝農業高校にスポーツ推薦での入学を勧められた。
しかし、親はそれに対してあまりいい反応を示してくれなかった。親の野球嫌いは相変わらずで、厳しい対応をしたが駿太は2日の間粘り続け、親に言い続けた。
親は野球を始めた時と同じように、根気負けをしてから彼を十勝農業へ送り出すことを決めた。
「ただし、条件がある。」
「何?」
「絶対にレギュラーとして、甲子園に出ろ。でなければ卒業後は家の農家を継いでもらう」
決して簡単とは言えない条件だった。勝負の世界で勝ち抜き、そしてその中でも1つの切符に向かって行かなければならない。
それが本当に苦しいことであることは理解していた。
しかし、彼は憧れ、自分が唯一打ち込めた野球でプロに行くため決心を固めた。
「プロに行くために、絶対に甲子園に行く」
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