おいしいとお言い

@FFHiro

第1話

 玉ねぎを刻みながら、ついため息がでる。

 今日のお昼ご飯は、ベーコンとキャベツとピーマンのパスタとかぼちゃのサラダだ。出来上がりの色どりはいいと思う。お肉より野菜を好む夫の気に入るメニューだと考えた組み合わせだ。淡色、緑黄色野菜共に十分取れる。ベーコンに加えて、サラダに入れたカッテージ・チーズでもたんぱく質を補える。60代の夫婦にはちょうど良いランチになるだろう。

 でも、ため息が出る。

 定年後、元の会社の子会社に移ってそれなりのポストを与えられていた夫が会社を辞めた理由は「後進に道を譲る。」だった。70歳前だったが、やはり加齢は感じていたらしいので、辞めるという決定に異議はなかった。辞めてからは、スポーツ・ジムとか、図書館とか興味の赴くままに出かけ、それぞれのところで知己を得て楽しんでいる様子なのも、有難い。一日中家に居て、奥さんの後をついてまわるという旦那さんもいると聞く。

 問題は食事だ。一日三回私が作って、二人で食べる。

 私の母はとても料理好きで、私にも子供の頃から手伝いをさせつつ、いろんな料理を教えてくれた。おいしいものも好きな人だったので、食材を組み合わせ、料理を楽しみ、娘の私にもその楽しみを教えてくれたのだ。だから、私も料理が好きだ。料理だけでなく、子供たちが育つ過程では、パンやケーキ作りもしたほどだ。

 息子と娘が、就職やら結婚やらで家を出てからは、パンやケーキ作りの回数は減った。それでも夫の母が、7年前に85歳で逝ってしまうまでは、時折プリンや蒸しパンやらは作っていた。

 今は、夫と二人分の三食を作るだけだ。料理をするのは楽しい。メニューを決め、材料を用意し、切る順番、調理する順番等手順を考えながら進める作業は、いっとき雑事や心を悩ませていることも忘れさせてくれる。

 問題は、夫と二人で食べることだ。特に無口な人ではない。在職中は職場であった面白いこと、今は、出先で見かけた興味深いこと、ジムや図書館で出会う人たちのことも話してくれる。

 問題は、料理の感想が一言もないことだ。おいしいとか、これは珍しい料理だねとか、私が作ったものに何も言わない。話ながらでも、箸を止めることなく完食するので、嫌いではないらしい。でも、何も言わない。

 結婚したばかりのころは、「ねえ、これどうかな、美味しい?」とか、「こんなの好きかな?」と問いかけてみたが、うんとかのあいまいな返事のまま、彼の会社の話題とかに話が移ってしまったものだった。

 子供ができてからは、子供の世話やら、子供たちの食の進み具合に気を取られ、いつしか夫の感想やら夫の好き嫌いなどには気にも留めなくなっていた。おいしいとは言わないが、いつも食卓で話題を提供し、子供たちの、ピーマンが嫌だの、どっちのハンバーグが大きいだのの騒ぎに紛れて月日が経って行った。

 子供たちが中学生になるころ、家を建てて、それまで一人暮らしをしていた夫の母を引き取った。早くに伴侶を亡くし、保険の外交員をして夫とその弟を育てた姑は、明るく、闊達な人だった。自ら「料理は苦手。」と公言し、台所に入ることはなかったが、私の作るものはなんでも喜んで食べてくれた。夫とは対照的に、「おいしい。」という言葉も惜しみなく言ってくれた。

 コーンスープが大好きで、初めて食卓に出したときは、「家で作れるもんなんだねえ。外で食べるもんだと思ってた。」と素直に驚いてくれた。生意気盛りの娘の美穂が、「お湯で溶く簡単なのもあるのに、おばあちゃん家でも食べたことないの?」と聞くと、「お湯で溶くだけって美味しいのかね。自動販売機で買ったコーンスープは缶の匂いがしたよ。それ以来、コーンスープはレストランで食べるものだと思っていたの。」と答えていた。

 義母と二人のランチは楽しかった。何を作っても喜んでくれる、珍しがってくれる。時に冒険をして失敗しても、食べられれば、「面白いじゃないか。」と笑い飛ばしてくれる。友達が多く出かけることも多かったので、毎日ではなかったが、週に数回は二人のランチを楽しんだ。時に午前中に出かけた時は、「お昼は買ってくるから、少し遅くなっても待っててね。」と言うこともあった。

そんな義母は大腸に癌が見つかり、闘病を経て逝ってしまった。いつの間にか食べられるものが減り、好きなものも多くは食べられなかったが、たまに口にできるものがあると、「美味しいねえ。」とほほ笑んでいたのが忘れられない。

 そんな思いに囚われていると、居間でガタンと何かが倒れる音と、「なんでさ、かあさん!」と叫ぶ子供の声がした。子供の声?今日は孫たちは来ていない。急いで居間とダイニングの間のドアを開けた。

 居間に夫の姿はなく、ソファのそばに女の人が仁王立ちしている。仁王立ち?タイトスカートから出た足を大きく開いて、腰に手を当ててソファを見下ろしている。紺の地味そうなスーツを着た女性。そしてソファの上には、ぶかぶかの洋服の中で泳いでいるような男の子。6~7歳?もう少し大きい?でも、二人とも誰?家族のだれでもないことは明らかだ。

 「ど、どなたですか?」尋ねた声が震えているのが、我ながら情けない。自分の家の中の見知らぬ人に敬語を使うか?主婦の習性か。

「房子さん!元気そうだねえ。」と振り返った女性はにこにこしてる。そのにこにこ顔にふとデジャヴのような感覚を覚えた。途端に、ソファの上の男の子が叫んだ。

 「房子!かあさんがひどいんだ。」

 「ひどいのはお前だよ。毎日欠かさず三食美味しいものを食べさせてもらっていながら、お前って子は、美味しいの一言もないじゃないか!」

 「美味しいよ、房子は料理が上手いんだ。だから、俺はみんな余さず平らげる。そして、俺はお返しに外であった面白い話をするんだ。」

 「食卓を話で盛り上げるのはいい。その点は、お前は上等な男に育ったと思うよ。でも、それと私が言っていることは別なんだよ。作ってくれた人、料理に対して敬意がないって言っているんだよ。」

 スーツの女性は、私に向けたにこにこ顔から一転、角でも出しそうな勢いで男の子を叱る。私のことを呼び捨てにした男の子の顔をまじまじと見てみる。息子聡の幼顔が重なって見える。そして、スーツの女性の顔をもう一度見て、思い出した。

 「お義母さん?」以前、姑に見せてもらった彼女の若い頃の顔を思い出した。ということは、ソファの上の男の子が姑を「かあさん。」と呼んでるということは、夫なのか。なぜかはわからないが60年くらい若返っている。

 「あなたなの?」

 「そうだよ!かあさんがいきなり現れて、俺をこんなにしたんだ!自分が若返ったからって、俺まで巻き込むのは酷くないか、房子。」

 酷いかも。でも、一体何が起こっているのかわからない私もヒドイ目に合ってる気がする。大きく一息ついて心を落ち着けて、二人に向かって言ってみる。

 「お昼の用意ができたの。まずは食べません?」

 かつて母が言っていた。困ったことがあったら、まずはお腹を満たしなさい。ひもじい思いをしたままでは、いい考えは浮かばない。お腹がいっぱいになれば気持ちは落ち着く。そうして、頭を冷やしてから問題に向き合いなさい。

 義母が大きく息をして、ダイニングキッチンからの匂いを嗅いでいる。

 「美味しそうな匂いがする。いいね!まずはごちそうになろう。」

 相変わらず意欲的な彼女に比べ、男の子、いや若返ってしまった夫はぶつぶつと不満を言っている。

 「こんなでかい服じゃ、ご飯が食べられない。」

 「待ってて、聡の子供の頃の服を持ってくるから。」

息子の子供の頃の洋服を夫に渡し、着替えに手を貸そうとすると、小さな男の子は、「いい!自分でやる。」とそっぽを向いた。耳が赤い。なんで今更自分の妻に照れるのか、これも意味が分からない。

 二人分を三人分に分けてテーブルに乗せる。スープがないのが申し訳ないが、子供の口にも合いそうだと、イチゴジャムでラッシーもどきも添えた。ああ、本当は子供じゃないだけど。その子供じゃない人は、テーブルに着くや否や、急いでラッシーもどきを飲んで、上唇に白い髭を生やした。

 「彰っ、いただきますはっ!」さっそく、義母の叱責が飛ぶ。かつて夫が、勉強しろとは言われたことはないが、挨拶と行儀にはうるさかったと言ってたことを思い出した。

そんな 夫も、子供たちの小さい頃は、食卓でのお行儀に時々うるさかった。いただきます、ごちそうさま、お箸の持ち方等々。ただし、それにまして夫が優先したのは、楽しく食べることだ。小言があっても長くは言わない。食事直前まで叱責や喧嘩があっても、食事中は一時休戦。多少のしかめっ面や、膨れた頬はあってもとりあえず食べる。

 「いただきますっ!」やけくその声が響く。

 「だってさ、あんまりにもいきなりなことで喉がからからだ。」やけくその後に、少し小さくなった声で言い訳が続く。

 「房子さん、この白い飲み物はなんだい。」

 「インドにラッシーという牛乳とヨーグルトを混ぜた飲み物があるんですけど、それをまねしたんです。私は自分で作ったイチゴジャムも入れてあります。孫の舞花が好きなんです。」

 「聡の子供だね。孫は可愛いだろう。」と言いながら、一口飲んで、「美味しいものだねえ。」と義母はにこにこした。が、途端に表情を変えて夫に向き直った。

 「こんなおいしいものを飲んで、お前は称える前に言い訳を言うのかい!」

 矛先が自分に向かったのに驚いて、パスタを口に入れる直前で止まったが、ここで黙る夫ではなかった。

 「かあさん、温かい料理が冷めちゃう。そして怒ってたら何を食べても美味しくない、そう俺に教えたのはかあさんだよ。まずは、食べちゃおうよ。」

 「言いたいことはあるけど、まずは休戦だ。頂こう。」

 しばらく、それぞれが各々の料理をつつく。姑のフォークがかぼちゃのサラダを何回か突っついて私に向き直って言う。

 「このかぼちゃとカッテージチーズのサラダは何の味付けなんだい?柑橘系の匂いがする。」

 「マヨネーズと柚子ポン酢を合わせたものなんです。以前は独流でマヨネーズとお醤油を合わせたものだったんですけど、料理雑誌にマヨネーズに柚子ポン酢をあわせるレシピがあって。柑橘系の匂いとかぼちゃってどうだろうって思ってたんですが、試してみたら、意外とさわやかじゃないですか?」

 以前の義母とのランチのように話が進む。目の前にいるのが、自分よりずいぶん若い女の人だということを忘れそうだ。

 「雪をかぶったかぼちゃん坊。」夫がつぶやく。

 「何だって?」「何?」姑と私が同時に聞く。

 「この料理に俺が付けた名前。」小さな男のは、えへんと咳払いでもしそうな勢いでちょっと威張って言う。

 「お前は房子さんの料理に名前を付けてるっていってんのかい。」

 「名前っていうよりニックネームっていうのかな。本当の料理名は他にあるだろうから。」

 「へえ、じゃあこのパスタは?」義母が聞く。

 「午後のやる気を煽るパスタ。キャベツの中のピーマンの匂いがさ、なんか元気になるんだ。ニンニクの匂いも混じってさ。」

 驚きだ。美味しいなんて言わずに食べていたこの人が、そんなニックネームを料理に付けていたなんて。時々、眉根を寄せていたので、何か気に入らない味なのかと心配していたのに、そんなことに頭をひねってたなんて夢にも思わなかった。

 「他にもあるのかい。」

 「房子の作るものにはたいがいあるよ。そう、俺が最初に房子ん家に行ったときにお義母さんが作ってくれて、房子も時々作る煮た鶏と錦糸卵と刻みのりをのせた味ご飯があるじゃない?あれにもあるさ。」

 「かしわめしだね。あれは美味しくて懐かしい味だった。房子さんのお母さんにごちそうになるまで食べたこともなかったのにさ。」と姑が夫の言葉を受ける。

 姑と相次いで亡くなった母の実家があった九州の小さな町の駅弁だったものを、母は自分で作っていた。母の母、祖母から引き継いだ味だろうか。祖母もまた料理上手な人で、自宅で結婚式や披露宴をやっていた頃には、必ず呼び出されて料理をしていたというのが母の自慢だった。

 「かしわめしになんて名前を付けたの?」思わず、小さな男の子の姿をした夫に尋ねていた。

 「鶏の幸せな庭。」

 炊かれてスライスされた鶏肉が海苔と錦糸卵に囲まれて幸せだというのか。ネーミングのセンスはどうだろう。でも、平皿や重箱に敷き詰められたご飯の上の海苔、鶏、錦糸卵を田舎の庭に見立てたのは、なんとなくわかる気がした。

 「お前って子は!そうじゃない、ニックネームに頭を使う前に、言うことがあるだろう!美味しく食べたら美味しいっていうんだよ。お前には、しゃべる舌はあっても、味のわかる舌はないのかい!」

 そこで言葉の止まった義母を見ると、息子を睨みつけてた目から力が抜けて、みるみる涙が溜まっていく。一つ息を吸い込んで、涙を止めて、姑が話し始める。

 「あたしのせいだね。仕事が忙しいって、お前やお前の弟に、買ったお惣菜やらインスタントものばっかり食べさせていたから、お前には味がわからないんだ。」

 紺のスーツの肩を落とす姑に、男の子が憤然とした顔で言い返す。

 「味がわからないなんて、親でも言っていいことと悪いことがある。俺はちゃんと味はわかるさ。確かにお惣菜ばっかりだったけど、いつも炊き立てのご飯があった。ご飯がうまかったから、お惣菜でもインスタントみそ汁も美味しく食べられた。かあさんがいて、稔がいて、三人でしゃべって食べてたから家の夕食はいつも楽しかった。だから、房子と結婚してからも、食卓では喧嘩しないってしてたんだ。」

 一気に話して、ふと何かを思い出したように夫が続ける。

 「かあさんがさ、土曜の昼に作ってくれたインスタントラーメンにもニックネームがあったんだ。」

 姑の頬が赤くなる。

 「子供のお昼にインスタントラーメンを食べさせてたことまで言わなくてもいいじゃないか。」義母の目にまた涙が溜まっていく。

 「たまごの海に浮かぶラーメン。」

 「それって、サッポロ〇番の塩ラーメンに溶いた卵を混ぜたもの?」

 「そう、なんで知ってんの?」男の子がテーブルに手をついて、私の方に身を乗り出す。思い出したことと、夫の反応に、思わず笑みが浮かぶのが自分でもわかった。

 「週末に母が居ないとね、父が作ってくれたの。父が作れるのはインスタントラーメンだけだったから。」料理上手な妻に飼いならされて、自分では何もできなかった父が作ってくれた塩ラーメン。卵が入って優しい味になっていたことを思い出した。

 父は、最初の孫が男の子だったことに大層喜んだが、その子が成人するまでは見れなかった。

 「まったく違う家庭環境で育ったお前たちは、同じものを食べていたことがあるんだねえ。」

 「お義父さん、ラーメンとかハンバーガーとか好きだったよなあ。母さんと同じものを作ってたんだ。」夫が感慨深げに言う。小さな男の姿のまま言うのが、ちょっと可笑しい。

 母が料理上手だった半面、父はずいぶんと好き嫌いの多い人だった。その父に嫌いなものをわからないように食べさせることにも、母は腕を振るっていた。孫が生まれてからは、子供が喜ぶからとハンバーガー・ショップやファミレスに嬉々と付き合う両親だった。

 食事もほぼ終わり、ふと我に返る。亡くなった両親を懐かしんでいる場合ではない。

 「それで、お義母さん、これはどういうことなんでしょうか。お義母さんは、聡より若い。彰さんに至っては、聡の子供とそう変わらない年頃になってますけど?」

 テーブルの上のお茶道具に手を伸ばしながら、姑に聞く。姑も夫も、食後は必ず温かい緑茶を欲しがった。湯呑が一つ足らないことに気づいて、食器棚に立って、大ぶりのマグカップを持ってくる。

 義母は、言葉を選んでいるのか、首をかしげながら少し考えこんでいる。お茶を口にするまで待つことにする。

 「ずっとね、見てたんだよ。そして、最近房子さんにため息が多いことに気づいた。」思わず顔が赤らむ気がする。

 「いつもじゃない。食事の支度をするときとかね。他の家事をしているときや、テレビを見ているときには出ない。彰が仕事を辞めて、毎日きっちり三食家で摂るようになって、料理が面倒になったのかとも思ってみたが、冷蔵庫の中を見て、何を作るか考えるとき、手順を考えながら道具を用意するときの顔の輝きは変わらない。料理が嫌になった人の動きはない。なんでだろうと不思議に思って、毎日見てて気づいたんだ。彰、お前が原因だ!」

 小さな男の子は、怯えた顔をする。過去に経験した母の叱責の予兆を感じたのか、口を開かず、緊張している。

 「新しい料理を作ったとき、お前の好物を出したとき、房子さんは必ずお前の顔を伺うように見てるんだ。でも、お前はばくばく食べるばっかりで何も言わない。そのうち、何やかやの話を始める。そして、房子さんがまたため息をつく。お前に気づかれないように小さくため息をつくんだ。」

 夫の、息子の幼いころと同じ目が、きょろきょろと落ち着きなく動き出す。聡が小さいころに、私が正座をさせて説教をしようとしたときに、怒られる原因に心あたりがすごーくあるときに、同じ表情をしていたことがふと思い出された。お義母さんが何を言い出すか、どんな指摘をうけるか分かっているらしい。

 「お前は、新しい料理に、お前の好物に何にも感想を言わない。美味しそうだとか、珍しいねとか、せめて、『これは何?』と興味を示す言葉くらい言えないのかい!」

 小さい彰さんは、この後の攻撃をどうかわそうかと、小さい両手を背中に回し、椅子の背もたれの棒をしっかりと握る。逃げる気はなさそうだが、勝てる気もないようなちょっと情けない表情だ。それでも、話し始める。

 「トラウマなんだ。」

 「なんだって、食べることにトラウマができるような育て方はしてないよ。まして、お前のたべっぷりで食事にトラウマがあるなんて、聞いて呆れるよ。」

 元らつ腕生保レディの口舌には隙がない。

 「そんなお前を私はしつけ直そうと出てきたんだよ。お前に口でも体力でも勝てるように、自分は若返って、お前は私に盾ついても勝てないような年頃にしてやったんだ。」

 あら、お義母さん、言ってることがちょっと身勝手な、というか卑怯な気がする。夫には最初から勝ち目はなさそうだ。

「結婚してすぐに房子が出した夕飯は、美味しそうだった。色どりもきれいで、品数も多くて、すごいなーと感心して、いただきますもそこそこに食べ始めたもんだよ。」

 「やっぱり、お前って子は!」

 「言い訳だけどさ、最後まで聞いてくれよ。裁判だって、被告人が抗弁することはできるぜ。」

 「聞こうじゃないか。」

 「ついばくばく食べてると、房子が、結婚したばかりの若い房子が聞いてくるんだ。『おいしい?味はどう?こういうの好きかしら。』って。目がきらきらしててさ、俺の返事に期待してるっていうのがわかるんだ。」

 ええ、ええ。若かった私はあなたの称賛が欲しくて、食卓を挟んで詰め寄る勢いで聞いたものだった。今、思い返すと恥ずかしい。自分の努力に他人の称賛を要求するなんて。ご飯は美味しくてあたりまえ。美味しいものを食べさせて、喜ぶ顔が見たくて作るのよ、亡くなった母はそう言っていた。『おいしい』と子供が喜べばうれしそうな顔はしたけど、美味しいの言葉を食卓越しに要求したことなんてなかった。

 夫に謝る言葉を口にしようとしたときに、夫が言葉を続けた。

 「そのときにすぐ、『うん、うまいよ。美味しい。』って言えば良かったんだ。でも、言おうとした途端、急になんだか照れっちまって、言葉が喉に詰まって、それを飲み込むためにもっとばくばく食って、次に出たのは、会社の話だった。房子はみるみるしょんぼりしたけど、直ぐに俺の話に笑って、その話題に乗ってきてくれた。」

 「そんな食事を何回か繰り返して、聞かれるたびに『美味しい、うまい。』って言葉がのどに引っかかって、言わない俺に、房子がちょっとだけ寂しそうな顔をして、でもすぐに笑顔になって。そのうちに、房子は聞くのを諦めた。でも、聞かれなくても『うまい!』の一言が言えない自分が情けなくて、でも房子の料理はバラエティに富んで、美味しくて。すまないと思いつつ、食べてるうちに、トラウマになった。」

 「そんなことをトラウマなんて言わないよ!情けない子だよ、わが子ながら。」

 小さい彰君の言い訳は、姑の怒りに火を注いだ。でも、私には夫の気持ちが分かった。若い夫を問い詰めようとしたときの、喉にご飯を詰まらせでもしたような表情を思い出したのだ。照れて素直に言葉にできないなんて、あの頃も今も考えつかなかった。そんな夫の葛藤を慮ることをしないのに、私は夫に求めていたのだ。私から言わなくても、私の料理を褒めて、美味しいと嬉しそうな顔を見せて欲しいと。

 ン十年も、夫も私も自分の思いを素直に口にすることなく、過ごしてきたなんて。子供にも恵まれ、小さな諍いはあったけど、幸せと言える年月を過ごしてきたと思っていたけど、お互いに大事なことを脇に置いていたのかもしれない。もう一度、夫に謝ろうとしたときに、今度は姑が話始めた。何かを思いついたらしく、にんまりとしている。反対に彰さんは、その笑顔にちょっと怯えたように一層椅子の背に張り付いた。

 「お前、房子さんの料理にニックネームを付けてたと言ったね。」

 「そうだよ。どの料理にも大概付けた。美味しいって素直に言えない代わりに、ニックネームをつけて、どの料理も味や色合いを忘れないようにしてきたんだ。」

 「そして、お前はその小さな電話で写真を撮ることもできる。」

 「スマホ、って言うんだよ。電話って言うな。」男の子は口を尖らせる。

 「お前が房子さんの料理を写真に撮って、その写真のタイトルをお前のちょっと間抜けなニックネームにする。そして、それに房子さんが材料やら作り方を書く。すべての料理が集まれば、立派な料理本になるんじゃないか。」

 「今は、レシピ本って言うんだよ。ん?かあさん、面白いことを思いつくね!」

 「だろ?本にして出版しなくても、この家だけのレシピ本?があれば、聡や美穂には懐かしんじゃないか?私のひ孫たちにも、『おばあちゃんの味』を具体的に伝えるいい道具になる。」

 「道具じゃなくて、今はツールって言うんだ。」と言いながら、夫は目を輝かせる。「パソコンで作ればいいんだ。房子、レシピは作れるか?」

 「急にいわれても。でも、作りながら考えて、書き留めれば何とかできると思う。美穂に頼まれて書いたレシピもあるし。」私もノッてしまった。

 「急がなくていいんだ。二人とも今は自由になる時間があるんだから。写真をとるため、レシピとやらを書くために料理を一緒に作ればいいのさ。」

 お義母さんってば、急に面白いことを思いつくんだと、その顔を見つめると、ちょっと照れたように笑った。

 「本当はね、彰に説教をして、ちゃんと『美味しい。』って言える子にしようかと思ったんだけど、トラウマとやらを抱えてるなんて言い訳をする奴をしつけ直す時間なんてないんだよ。房子さん、許してやっておくれ。美味しいと思ってても、そう伝えることの大事さを知らないばかなんだ。」

 「かあさん、ばかって言うな。ばかって言う人がばかなんだって教えてくれたじゃないか。」

 「おだまり!これからは、美味しいものを食べたらちゃんと『おいしい。』ってお言い。お前が房子さんの料理が好きで、これからも食べたいなら美味しいことを伝えるんだ。そう教えたくて、あたしが出てきたんだよ。」

 「おかあさん、ご心配をかけてごめんなさい。私こそ、大事なことを伝えずに、不満をため息に変えてたみたいです。黙って食べても、機嫌よく全部食べてくれることが、満足している証なのに、そんなことも忘れてた。子供みたいに褒めて欲しいとばっかり思ってた。」

 思わず、涙がこぼれた。

 手で私の頬を拭いながら、姑が言う。

 「長い長い間の、行き違いが治ったね。良かったよ。若返って帰ってきた甲斐があったというものさ。」

 「彰、私はもう行くよ。安心したからね。」

 「子供や孫たちのためにレシピ集は作るよ。すぐは難しいかもしれないけど、美味しいって言葉も言えるように頑張るよ。」

 小さな彰君は、自分のお母さんの顔を見上げてる。かつてそんなひとときがあったことを懐かしむようだと思うのは、私の感傷かもしれない。でも若い母親が小さな息子に向かって微笑む様子に、胸の奥がゆっくり温まるようだった。しかし、その思いを断ち切るように、姑が言い出した。

 「おお、忘れてたよ、彰。あたしが消えたら、あんたは5分以内に元の姿にもどるからね。うかうかしていると、房子さんが大事に取っておいた聡の洋服をひき破ることになるよ。」

 それを聞いた夫は、途端にぎょっとした表情で、くるっと向きを変えたかと思うと、居間に向かって走り始めた。途中で、どすんと音がする。きっと、ソファの足に引っかかってこけたに違いない。

 「相変わらず、そそっかしい子だよ。」

 姑が笑い出す。息子が急に走り出すこと、そしてこけることも予想して、自分が消えた後のことを言い出したに違いない。私も一緒に笑う。

 「パスタもサラダもラッシーも美味しかったよ。食後の温かいお茶も。久しぶりに房子さんのランチを堪能したよ。息子をしつけ直す、なんて大言壮語してたけど、本当はランチを食べるために帰ってきたのかも。そのうえ、若返ってさ。」

 いたずらっぽく笑ったと思うと、

 「じゃあね。いつでも楽しく食べてね、私の分も。」と言うと、義母の姿は消えた。

 テーブルの方を振り返ると、テーブル上には三人分の食器が残されていた。久しぶりに賑やかだったランチタイムを思い返しながら、私は洗い物の準備をすべく、お皿を重ね始めた。

                                 終わり

 

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