第9話 朝は来る・2
五月も半ばを過ぎた週末、僕は二人掛けソファの右側でコーヒーを飲んでいた。色濃くなった青空を、ちぎれ雲が泳いでいる。
一度、試しに真ん中に座ってみたことがあるけれど、この二人掛けのほうは左右で座面が分かれていて、隙間に嵌りこんでいくようで落ち着かなかった。
ナタリアはいつも、よくこんなところに座れるもんだと思っていたところへ、当の本人が現れた。
僕には目もくれず、キッチンに直行して、カトラリーの引き出しやカウンター周辺をガサゴソしている。
「どうしたの、ナタリア。何か探し物?」
「うん……。ここに、ハサミがあったと思うんだけど」
僕もマグカップを置いて一緒に探してみたけれど、たしかにどこにも見当たらない。元々は、僕のキッチンバサミだったんだけどな……。
「何に使うの? 普通のハサミで良かったら、部屋にあるから取ってくるけど」
「ありがとう、助かる!」
部屋のペン立てからハサミを持ってきてナタリアに渡すと、彼女はすぐには帰らずに「まだ言ってなかったと思うけど……」と前置きをした。
「私、次の火曜日に引っ越すの」
僕は最初その意味が解らなくて、たぶん間抜けな顔で首を傾げていたんだと思う。ナタリアがもう一度言い直してくれた。
たいていの人は一回目で通じなかった場合、ちょっと違う言い回しをするか、ゆっくりしゃべってくれるけど、ナタリアはそういうことをしない。
同じ言葉を、同じ速さで、強烈な巻き舌英語のままで言う。
だから僕のほうで
「ロシアに戻るの?」
ナタリアは細い鼻に皴を寄せて、クシャッと笑って頷いた。
「そうか……。頑張ってね」
それ以上、何を言ったらいいのかわからなかった。
ナタリアは視線を落として、手の中のハサミをしばらく弄んだ後、ふいに僕に抱きついてきた。
僕は未だ慣れないハグに戸惑いながら、その背にそっと手のひらを置いた。
ナタリアの背中は見た目よりも小さくて、見た目よりも温かかった。
そのぬくもりを手放しながら、僕はイリーナのことを考えていた。そうか、彼女にはもう会えないのか。
もう、二人の『
最後に話したのは、いつだっただろう。
数日前ここに来ていたけれど、その時僕は参加しなかった。ということは、先週になるのか。何を話したっけ? エネルギー問題とか、好きな画家とかだったっけ。
「荷造りはどう? 何か手伝えることがあったら、言ってね」
「うん。その時は、頼むわ」
手伝いは必要ないだろうと、僕はわかっていた。
シェアハウスには、みんな余計な物を持ち込まない。そして、持ち帰らない。
要らない服は処分するし、食器や使いさしの調味料、洗剤なんかは次の入居者のために置いていく。
だからスーツケースとわずかな段ボール箱だけで荷造りは完了するし、引っ越しするのにトラックは必要ない。
「火曜日は、たぶん仕事でいないけど……」
「わかってる。大丈夫」
明るく答えたナタリアは、僕が渡したハサミで僕の腕をポンポンとした。
ナタリアさん、笑顔で凶器振り回しちゃダメだよ。
「ナオも、頑張ってね」
「うん。ありがとう。……えっと、
ナタリアはきょとんという顔をした。やっぱり、発音が
ちょっと珍しいものを見られたなと思いながら、僕も冷めかけのコーヒーを飲みにソファに戻った。
これは僕が、イリーナに一番言いたかった言葉だ。
僕と出会ってくれてありがとう。
キミが、キミでいてくれてありがとう。
ロシアとウクライナの関係が緊迫して、ニュースで度々その名前を目にするようになって、心の奥がざわつくのを感じながら、それでも僕はまだどこかで楽観していた。
これだけ差別や暴力が
けれど軍事侵攻は開始された。
ウクライナの街が破壊され、民間人も犠牲となっている。
ロシアの人たちも心苦しい思いをしている。
こんなこと、誰が本当に望んだだろうか。
気鋭の若手外交官は今、世界のどこにいるのだろう。
この同じ空の下で、何を思っているのだろう。
<了>
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