第8話 朝は来る・1


 イベントが終わると、ちょっとしたメランコリーに沈んでしまうのは、僕だけではないと思う。

 まあ、僕は何の計画や準備にも関わっていないし、ポッと行って飲食させてもらっただけの身なんだけれども。


 それでもイリーナは変わらぬペースで僕たちのシェアハウスにやって来て、そして、あれからまだ一か月も経たない頃、僕は再び美女二人に迫られていた。


「学校のイベントで、クイズ・ナイトがあるの。ナオもチームに入らない?」

「七時なら、仕事は大丈夫でしょ? 無理でも終わらせて来て」


 この時おそらく、僕の顔には「え、僕なんかが!?」という言葉が特大フォントで表記されていただろう。という英語表現がわからなかったから黙っていただけで、少なくとも心の中ではそう叫んでいた。

 それを解読して、イリーナが付け加えた。


「大丈夫よ。誰でも友達連れてきていいことになっているの。学校に関係ない人でも。ナタリアも来てくれるし」

「うん、一緒に行こうよ! 絶対楽しいよ」


 これってたぶん、既に拒否権存在しないやつですね?


 クイズ・ナイトというのは、要するにクイズ大会だ。酒場などでドリンクを片手に、司会者の出題するクイズにチーム戦で挑む。

 みんなで相談して導き出した答えを解答用紙に書いていって、一番正解数の多かったチームには優勝賞品が贈呈されるというわけだ。


 初めて聞いたときは、なんだか子供向けイベントみたいだと思ったけれど、アルコールも手伝ってか、いい大人たちがこれでけっこう盛り上がる。


 僕たちは三人とも英語が外国語だから、ネイティブ枠としてダニエルを採用することにした。

 チーム定員は最大五人で、多いほうが有利だからもう一人誰か見つけてくるとイリーナは言って帰って行ったけれど、当日になって連れてきたのはやたらイケメンなフランス人だった。


 政治問題に限らず、彼らは本当にいろんなことを知っていた。

 たとえば文学なんかもそうで、ヘミングウェイとかディケンズとか、他にも耳慣れない文学者たちの名前が美男美女の口から次々と出てくるのを、僕はただ映画でも鑑賞している気分で眺めた。

 こういうとき、外国語訛りが三割増しカッコよく聞こえる。


 意外なことに、ダニエルもこの手の話題にけっこう食いついていた。たまに見当違いのことを言ってナタリアに怒られているみたいだけど、大丈夫、僕には間違いかどうかさえ分からないから。

 それから彼は、芸能とか、スポーツには詳しかった。これももしかしたら知ったかぶりで、本当は間違っていたりするかもしれないけど、以下同文。


 理系の問題になると、すぐに解答用紙が僕のほうへ向けられた。

 答えがわかっても、英語がわからないこともあったけれど、図形や元素記号なんかを書いて見せるとみんながなんとかしてくれた。問題自体は難しいものじゃなかったから、みんなが挙げる単語の中にピンとくるものが見つかった。


 これにはネイティブ枠のダニエルよりも、イケメンフランス人のほうが活躍して、ダニエルは要らなかったんじゃないかなんていう説も出たけれど、ダニエルは僕の精神安定のために不可欠だったと思う。


 ちょっと難しい問題になると、僕たちは隣のグループに聞かれないように頭をつき合わせて相談して、それが秘密の会合でもしているようでなんだか楽しかった。



 クイズ・ナイトは優勝とはならなかったけれど、僕たちはそのまま夜の街に繰り出して、ジャズバーみたいなところに流れ着いた。

 フランス人はその途中で帰って行った。たぶん次の美女が待っているのだろう。

 べつに、ひがみじゃないから。


 イリーナは最初の一杯をおごると言ってきかなかった。ダニエルも僕もその役を奪おうと必死になったけれど、今日はクイズ・ナイトに付き合ってもらったからと、どうしても説得に応じない。


 最終的にはナタリアが調停に入って、二杯目以降を僕たちがもつことで交渉は成立した。


「心配しなくても、私達たくさん飲むから」


 確かにそうだ。


 店内は混んでいて、僕たちはグラスを手に彷徨さまよって、ようやく空いているテーブルを見つけた。

 でも、椅子が一脚しかない。


 戸惑う僕を放って、ダニエルはグラスを置いてその場を離れてしまった。

 騒々しい音楽を潜り抜け、隅のテーブルへ行って声を掛けている。知り合いだろうか。と思ったら、少し談笑した後、椅子の上から荷物を除けてもらって持ち帰ってきた。他の二人もどこからか調達してきて、あっという間に四脚に増えた。

 何この人たち、魔術師マジシャンですか?

 

 みんな既に店内を移動しながら飲み始めていたけれど、僕たちは改めて乾杯し、クイズでの健闘を称え合った。

 テーブルは狭すぎて、椅子は高すぎて、僕はどうにも不安定だった。英語だと「uneasy」。この単語がピッタリくる。こういう場所は慣れなくて、不安で、落ち着かない。


「いい店じゃない」

「このあと、生演奏やるんだって」

「見て。今日の写真」

「うわっ、ヘンな顔。それあとで送ってよ」

「あ、この曲好き」


 とりとめのない言葉を発して、ビールを一口。また話したり、話さなかったり。フロアを眺めたり、スマートフォンをいじったり。ついさっきまでチームだったことが嘘のようだ。

 でも、なんか、心地いい。


 その時間は長くは続かなかった。早々にグラスを空にしたダニエルが、こんなことを言い出したのだ。


「さっき知り合い見つけたから、行って挨拶してくる」


 ちょっと待て。こんなところに置き去りにされたら、僕は死んでしまうぞ!?

 僕は知っている。「挨拶」なんて言いながら、どうせそのまま話し込んでしまうに決まっている。


 折しも、店内のBGMまでフェードアウトした。

 僕は最初、静寂を怖れた。

 それはすぐ、逆方向へ傾き出した。

 ガヤガヤと話し声、グラスのぶつかる音、行き交う人の足音。さっきまで隠れていた雑音が、じわじわと僕の元に攻め寄せる。


 その狭間に、僕は青い瞳を見つけた。


KAMPAIカンパイ


 目が合うと、イリーナはちょっとおどけた感じでグラスを掲げてみせた。

 乾杯という日本語を知っている外国人は、けっこう多い。


「うん、乾杯」


 僕はグラスを合わせると、なんだか急に気恥ずかしくなって、ビールにダイブするように口を浸した。

 しまった、ロシア語でなんて言うのか、聞けば良かったな。


「クイズ・ナイトはどうだった?」

「面白かったよ。……まあ、結果はちょっと、残念だったけどね」


 話を繋げたくて、余計なことを言ってしまったかなと思ったけれど、イリーナは同調してくれた。彼女は大らかだけど、負けん気の強いところもある人だ。

 遊びでも何でも、本気で取り組んで、本気で悔しがる。


「うーん、私が思うに……あれはダニエルがやらかしたな」


 もちろんこれは本気ではなくて、すぐにフフッと悪戯っぽく笑ってみせた。

 結局は、楽しいことが彼女にとって一番大事なのだ。


「あはは、そうだね。きっとそうだ」


 ピアノの音が軽やかに流れ出す。


「今日は来てくれてありがとう」

「ううん、僕も楽しかった。いい一日だったよ」


 本心だった。

 疲れたけれど、楽しかった。


 みんなでクイズに夢中になって、子供みたいにはしゃいで、ふざけ合って。たくさん話をして、たくさん笑った。

 この夜が終わってしまうのが名残惜しいとさえ感じていた。


 それでも必ず夜は去り、朝が来る。

 僕たちは皆、朝を待ち望まずにはいられない。


 朝はいろいろなものを連れてくる。

 新しい太陽。新しい一日。新しい希望。新しい経験。

 出会い、そして、別れも。


 生演奏が始まると、思ったよりも音量が大きくて、僕たちはまた、静かにグラスを傾けた。薄暗い照明と、鼓膜に響くビートが、保護膜のように僕を包む。

 ずっと、この中に閉じこもっていては、いけないのだろうけど……。


「ナオ」


 顔を上げる。イリーナの口が動いて何かを紡ぐ。声は音楽に紛れて、僕はそれを逃してしまった。


 ナタリアはリズムに身を任せながら、スマートフォンをいじっている。ダニエルはまだ帰って来ない。


 僕は椅子のバランスに気を付けながら、イリーナのほうへ身体を傾けた。イリーナも身を乗り出して、僕の耳元に言葉を運んだ。


 僕たちは距離感を誤って、イリーナの唇が耳介に触れた。



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