第7話 ブラックデー・2
「ナオ、その服いいじゃない!」
雑踏をかき分けて、僕の前に現れたイリーナは太陽のような笑顔を浮かべていた。
4月14日はまだ肌寒くて、僕は薄手の黒いカーディガンのようなものを羽織っていたと思う。
「今日は、黒い服を着るのが正式なんだって。それ知ってたの?」
「へえ、そうだったんだ?」
……はい、事前にリサーチしました。
でもドレスコードは指示されていなかったから、一人だけ張りきり過ぎている感じになるのも嫌で、ボトムスはダークカラーにとどめておいた。
「だからイリーナも今日、黒い服なんだね。よく似合ってる」
実際彼女は、丈の短い黒のニットワンピースを着ていて、髪色とのコントラストといい、とてもよく似合っていた。金髪がいつにも増してクッキリ輝いている。それに今日は、メイクもしているようだ。
その黒い服は彼女にピッタリだった。
ピッタリというのは言葉通りの意味で、有り体に言えば、非常にボディ・コンシャスだったということだ。
裾から伸びるすらりとした
珍しいから目がいってしまうのは、ある程度やむを得ないことじゃなかろうか。
意外なことに、彼女は少し照れた。
「ありがとう。……私くらいの年齢には、ちょっとおかしいかなとも思ったけど」
「そうかな。そんなことないと思うよ。僕はいいと思う」
褒め言葉も、予習しておくべきだった。
「じゃあ、ゆっくりしていってね。……って、あなたの家だけど」
イリーナの黒い背中が去っていく。
僕は他に「黒い服装」をしている人がいるだろうかと、改めて部屋を見渡した。
韓国人の三人は、黒集団と化している。まあ、ここはそうでなくちゃね。
インド人男子二人は揃ってチェックシャツに黒いジーンズを着ているけれど、あれはたぶん、偶然だろう。
上下黒っぽいのが一人いるけど、普段着な気もする。彼はノルウェー人だったかな。その隣は黒いミニスカートに網タイツ。たしか、ニュージーランド。
ナタリアは黒のキャットスーツみたいなのを着ているけれど、彼女の場合は平常運転だと言っていい。
あとは、目立った黒は見当たらない。
スペイン人は真っ赤なTシャツを着ているし、アメリカの女の子に至っては、全身ピンクだ。
……ていうか、何なのこの超多国籍軍団!?
この部屋に来てから、紹介されただけでも既に十か国以上の名前を耳にしている。もちろん、イリーナやハウスメイト達を除いてだ。
それはもう、南極を除く六大陸をコンプリートしていて、このシェアハウスのキッチンに世界が縮小されたようだった。
僕はてっきり、韓国人数人と、他にせいぜい二、三人の友人が来るのだろうと思っていたのに。
それがどうだ。ダニエルやジェシーもそれぞれの友達を連れて来るし(そんなこと一言も言っていなかったのに)、イリーナたちが招いた友人も、さらにその友人を伴って来て、続々と人が増えている。
テーブルの上には、韓国人たちが作ってくれたメインディッシュの「黒い麵」の他に、各国料理が所狭しと並んでいた。みんなが持ち寄ったものだ。
餃子に似た食べ物は形を変え名前を変えて、たくさんの国に定着していた。それから細長いお米の炒飯みたいなのやら、何が入っているのかよくわからない煮込み料理、
僕も何か用意したほうが良かったかなと焦ったけれど、ここの住人は場所を提供しているからいいのだと、ナタリアが保証してくれた。
実際ナタリアも、他のみんなも、予め何かを作ったり買ったりしてきた様子はなくて、僕の罪悪感は少しだけ軽減された。
驚くべきことに、この集まりには
宴が始まってしばらく経った頃、小さく開けたドアのすき間から滑り込んできた彼は、直ちに何人かに声を掛けられて逃げまどい、オレンジジュースの入った紙コップを盾にダイニングの隅に立て篭もった。
影男君がダイニングに足を踏み入れた、歴史的瞬間に僕は立ち会えたのだ。
彼は束の間、一人になって卓上の料理をつつく自由を得たけれど、そこへイリーナ特攻隊長が突撃をかけた。何を話しているのだろう。
それからイリーナは、テーブルの対岸で大人しくしていたインド人たちを手招きし(自分のほうから行くんじゃないんだね)、影男君に引き合わせた。
遠目に見るとオタクトリオという感じで、なかなか良い組み合わせだと思う。イリーナがその場を離れても、三人はポツポツと話を続けているようだった。
僕はというとその頃、ブラジル人から質問攻めに遭っていた。
「日本人なの? 日本のどこから来たの? それって東京に近い? 何があるところ? いつからこっちにいるの? あと何年いるの?」
ええー。それ、今さっきリトアニア人相手に一通りやったんですけど?
まあ、そのこと自体は、僕の英会話練習にもなるからべつにいい。
けしからんのは、その服装だ。
彼女はベージュのニットを着ていて、それはまあ、よく似合っているのだけれど、これまたVネックが深Vというか、もはや極深Vともいうべき域に達している。
やっぱり、これくらい普通なものなのかな?
「私、東京に行ったことがあるの。いいところよね。日本語もちょっと勉強したわ。アリガト。マジデ。イッタダキマス。ヤクザ」
「わあ、すごい。いっぱい知っているんだね」
でも最後のやつは、どこで使うのかな?
彼らの言う「日本語を知っている」とか「使える」というのは往々にして、自称「英語が喋れない」日本人の英会話レベルよりもはるかに初歩的だけれど、それでも果敢に片言の日本語を並べてくれるのは嬉しいものだ。
僕も一応、ロシア語の基本挨拶をネットで調べてみたけれど、そういうのを一番使いやすいのは初対面のときで、今となっては使いどころを探しあぐねている。
「あと、あのギャンブルも知ってる。東京でやってみたわ。えっと、パ、チ……?」
「ああ、パチンコね」
「そうそう、それ! PA-CHINCO! PA-CHINCO!」
女の子がそんな言葉連呼しちゃいけませんっ!
つ、疲れた……。
ようやく解放された僕は、一旦どこかへ落ち着こうと周囲を見回した。
ソファは既にカースト上位の陽キャたちに占拠されていて、そこに僕が入っていく余地も、もちろん気力もない。
立食形式だったから、ダイニングチェアはすべて壁際に避けてある。あそこにポツンと座るのは、さすがに寂しいヤツになるだろうか……。
僕も一応、ここの住人であるはずなのに、どこにも居場所が見つからない。泣きそうだ。
こっそり部屋に戻ろうかな。
でもイリーナが主催者みたいなものだから、彼女がいないうちに消えるというのもなんだか気が引ける。
考えるのにも疲れて、諦めて壁際の席に腰を下ろすと、すぐに黒い人影が隣にやって来た。
「日本人だよね? 僕は韓国人。隣いい? あ、もう座ってるけど」
「もちろん。どうぞ」
一緒に来ていた韓国人女子二人は、ソファの端に固まって、頑張って会話に加わろうとしているようだ。偉いなあ。
「イリーナとは、どういう知り合い?」
「え? ああ……、僕はここの住人なんだ。ナタリアと一緒で」
「ああ、なるほど」
……。
「あ、僕は、イリーナと同じクラスを取っていて」
「ああ、そうなんだ」
……。
「そうだ、このブラック・ヌードル、美味しかったよ。ありがとう」
「そう、良かった! まあ、僕はあまり手伝ってないけど」
……。
そうだよね! 初対面との会話って、本来これくらいぎこちないものだよね!?
僕は遠い異国の地で出会った隣国の
「ナオー! 鍋貸して!」
ご機嫌のナタリアが、怒鳴るように言いながら僕の前を通り過ぎた。
既に何人かは帰っていって、部屋の中の人数は半分以下に減っていた。
「……ええ、どうぞ」
答える前に、もうキッチンから僕の鍋を引っぱり出している。
彼女はそこに、残っていたウォッカやらジンやら、度数の高いアルコールを中心にとにかくいろいろぶちこんで、鍋一杯のハイパーカクテルを作り上げた。
「いい? じゃあねえ……『0』が出たら、男子全員が飲むの。『1』だったら女子ね。それから……」
部屋にあったダニエルのUNOカードを手に、ナタリアがルール説明を始める。カードを引いて、出た数字によって該当者が鍋のカクテルを紙コップ一杯飲むのだそうだ。
うわあ、ロシアンだなあ。
「みんなコップ持って! ほら、そこの二人も、早くこっち来る!」
僕たちにも召集がかかった。
そこへ、みんなをバス停まで見送っていたイリーナたちも帰ってきて、残っている全員がこの滅茶苦茶なゲームに強制参加させられた。
酒量は無理せず、コップ一杯の量は個人の裁量で、ということでスタートしたけれど、一部女性(主にイとナで始まる人たち)がなみなみと汲んで飲み続ければ、引き下がれないのが男どもだ。
最後のほうはなぜかナタリアとダニエルの飲み対決になって、その頃にはみんないい感じに酔っていた。
それから僕たちは山手線ゲームやら、人狼ゲームやら、世界各国の宴会ゲームで盛り上がって、そうして夜は更けていく。
……あの、ところでキミたち、ブラックデーがパートナーいない人向けのものだってこと、ご存知なのかな?
いや、まあ、いいんだけどさ。なんちゃってイベントだし。
ジェシーは間違いなくボーイフレンドがいるし、今日ここに来た連中も、どうせほとんどが彼氏彼女持ちなんだろう。
イリーナはどうなんだろうと、考えかけてやめた。
僕たちは大人な付き合いで、互いのプライベートに過干渉しない。
こんなところまで留学に来ているし、しょっちゅうナタリアのところに遊びに来ているくらいだから……うん、やっぱり、何でもない。
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