第6話 ブラックデー・1


 慣れというのは恐ろしいもので、僕は次第に、ロシア語が聞こえていても平気でキッチンへ出入りできるようになっていった。


 大事なのは「入」じゃなくて「出」のほうだ。

 行って、挨拶をして、自分の用事をしながらちょっと話をしたり、しなかったり。そのまましばらく留まることもあるし、大抵はすぐに部屋を出る。要するに、自由意志によって進退を決められるようになった。

 最初の頃、何をあれほど警戒していたのかは、よくわからないけど。


 自分の部屋に戻っても、もうゲームアプリは開かない。

 僕がゲームの中で顔の見えない相手の時間潰しに付き合っている間にも、彼女たちは人と会って、話をして、どんどん世界を広げていく。

 それを真似するのは僕にはハードル高すぎるけれど、とりあえずウクライナの事や、他の国の事や、自分の国の事を、もう少し知ってみようと思った。



 今日はロシア語「アリ」の日だ。だからといって、僕は必ずキッチンへ行くというわけではないけれど。でも今日は、たぶん、コーヒーが飲みたい。


 そう思って来てみたものの、二人の様子がちょっとおかしい。珍しくソファのほうじゃなくて、キッチンに立って話している。いつもより、トーンがややシリアスな感じがする。


 たぶん何かの相談をしているのだろうけど、何を言っているのかさっぱりわからない僕にとっては、口論をしているようにも聞こえる。

 これはよくあることで、街中で外国人が怒鳴り合っているなと思っても、実は普通に会話しているだけだったりする。


 二人も、べつに怒っているようには見えないし、たぶんロシア語ではこれが普通なんだと思うけど……。

 それを覗き窓から確認した僕は、少し躊躇ちゅうちょしたけれど、やっぱり入ることにした。


 万一口論になっているなら、第三者の存在は多少のクールダウンにはなるはずだし。


 先に振り向いたのはイリーナで、パッと笑顔が花開いた。


「ナオ! 待ってたよ」


 え?


「話があるの」


 ナタリアさん、笑顔が素敵コワイです。


 僕のパーソナルスペースはたぶん平均よりもやや広くて、部屋の中まで入ってもまだ、二人からそれなりに離れた位置で立ち止まっていたはずだけど、そんなものあっという間に詰められてしまった。


「私達、ナオにお願いがあって」

「え、うん……、何だろう?」


 僕は後ずさりしそうなのをこらえて、二人の顔を交互に見比べた。だいぶ耐性がついてきたとはいえ、外国人美女二人に迫られると、迫力がすごい。


「イリーナの学校の友達で、韓国人の女の子がいるんだけど……」


 うわー、来たよコレ、コミュ力モンスター!

 今度は韓国人? 国際色豊かだな。


 そんなことを考えているうちに、ナタリアは巻き舌英語で続けていた。その子からブラックデーのことを聞いて、真似事のパーティーをこの家でやりたいという。

 ブラックデー……ああ、4月14日に黒い物を食べるんだっけ?


「私達のところだと、キッチン狭いし、設備もこんなに良くないの。だから、ここでさせてもらおうと思って」


 イリーナも言葉を添える。

 いわゆる女子会ってやつかな? はいはい、お邪魔虫は退散しますよ。


「もちろん、いいよ」


 14日は平日だ。出来るだけ遅くまで職場に残って、あとは、しばらく街をブラブラして時間を潰そう。ショッピングモールとかで、なるべく遅い時間まで空いているところを探しておいたほうが良さそうだ。

 あと、終バスの時間も。


 バーだったら遅くまでやっているだろうけど……。僕の場合、一人で行くとそそくさと飲み終えて、半時間と経たないうちに店をあとにすることが目に見えている。

 いざとなったら、ダニエルを誘ってみようか。

 あいつとは、家では何度も飲みに付き合わされているけど、外で飲んだことは一度もない。


「それじゃあ、14日。学校終わってからだから、私は今日と同じくらいの時間になるかな」

「オッケー、それくらいにみんなを連れてくるわ。韓国の黒いヌードルを作ってくれるんだって。そうすると……スタートは七時頃がいいかな?」


 それから始めたら、終わるのは何時くらいだろう。僕は頭の中で計算した。

普通なら、二時間くらいでお開きだろうか。でも彼女たちなら、さらに一時間くらいはおしゃべりを続けるかもしれない。

 となると十時? けっこういい時間だな。


「ナオも、可能なら来てね。他のみんなにも私から声かけとく」


 いや待てよ。外に出なくても、共用エリアだけ明け渡せば、自室にこもっていてもいいのか。そうなると、ハードルはぐんと下がる。

 うん? ナタリア、今何て言った?


「その韓国人の子、すごくいい子だから。他にも韓国人連れて来てくれるけど、みんなナオと仲良くなれると思うわ」


 イリーナは僕にそう話しながら、ソファにドカッと腰を下ろした。もうすっかり、ここの住人のようだ。


「私はウクライナだし、ナタリアはロシアだけど、仲良しでしょ。政府の方針とかそういうのは、私達には関係ないし、ね」


 いつも口数の多いナタリアが、この時はただ、静かに微笑みながら頷いた。


 僕はようやく理解した。彼女たちは、日韓の微妙な関係をおもんばかってくれていたのだ。

 遠いアジアの片隅の、当人たちでさえほとんど意識していない国際関係を、この人たちが気にかけていたなんて。


 僕はウクライナとロシアがどれくらい仲が悪いのか知らなかったし、ナタリアがイリーナを連れてきて、二人の国籍を知っても、何の違和感も抱かなかった。


 ロシアとウクライナも、他のヨーロッパも、ほとんどが陸続きで、彼らはずっと前から戦争したり、侵略したり、支配したりを繰り返してきた。

 国境は何度も描きかえられたし、国がなくなったり、分裂したりも度々あった。


 島国日本は、現存する最古の国家。太古の昔から現在につながる天皇家が君臨していた。戦後の日本に生まれ育った僕が描く「国」や「国際関係」の概念は、きっと世界中の多くの人達のそれとは乖離かいりしているのだろう。


 僕にはできない気遣いを、彼女たちは当たり前に持っている。


 その晩僕は、ウクライナの歴史を調べながら、ずっと昔にお世話になった英語の先生の言葉を思い出していた。

 国際関係など、国同士の関係を表すときには基本的に『relations』が用いられる。友達など人と人との関係には『relationship』。イリーナとナタリアの関係は、ウクライナとロシアの関係とは、使う単語からして違うんだ。


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