第3話 ミモザ・3
今度は僕の話になって、どんな仕事をしているのかとか、どうしてこの国に来たのかとか、ベーシックな質問から取り掛かる。
ナタリアにはひと通り話してあるはずだけど、彼女はイリーナと一緒になって質問を重ね、場を盛り上げてくれた。
もしかしたら、本当に忘れていたのかもしれないけれど。
そこはたぶん、考えなくていいんじゃないかな……。
最初のうちこそこんな時、何からどう話そうかもたついていたけれど、ハウスメイト達相手に訓練を重ねるうち、僕はだいぶ上達していた(全員同時に入居してきたわけじゃないから、その度に似たような問答を繰り返したのだ)。
今では相手の興味に合わせて、概略から細にわたるまで、かなり流暢に説明できると思う。
特にダニエルの場合は、好奇心は旺盛だけど人の話をよく聞かないから、その度にやんわり訂正していた僕には、いい練習台になった。
でも実は、何回言っても間違えるから結局放置してしまった部分もある。ごめんよ、ダニエル!
イリーナはというと、かなり専門的なところまで興味を持ってくれた。もちろん、普段仕事で使うのと違う「
お次は統計だ。日本の人口、東京の人口、気温、平均寿命、etc.
ロシアの人口は日本より少し多くて、ウクライナは確か、三分の一くらいだったと思う。それでも国土の広さを考えると、いつものことながら日本の人口は驚異をもって受け止められた。
ヨーロッパは大都市がいくつもあるイメージだけど、国の人口を比べるとどこも日本とは桁が違う。だからEUというスクラムを組んで世界と勝負している。
僕はこっちに来るまで、日本の人口をちゃんとは知らなかったし、ましてや東京とか自分の出身地の人口なんて、見当もつかなかった。
小学校で習ったとか、そんなものとっくに忘却の彼方だ。
ここではよく聞かれるから、しまいに覚えるようになったけれど、大きい数字は英語だと三桁ごとに呼び名が変わって、日本語だと四桁ごとだから、変換するのが大変で僕は英語の表現で覚えてしまった。
日本語で聞かれたら、すぐには答えられないと思う。
人口の話はラッシュアワーの
東京の日常風景は、ネットやテレビを通じて世界に紹介され、数々の伝説となっていた。いつだったか、目を輝かせて「日本人って、クリスマスに
気が付けば、イリーナの口からは日本の総理大臣の名前が飛び出していた。僕でさえ「あれ、今は誰だっけ?」と考えてしまうのに、海外でウクライナ人とロシア人がその名を確認し合っているのを見ると、ちょっとショックだ。
二人は日本政府の最近の外交政策に言及し、ナタリアはロシアの大統領や首相、イリーナは(たぶんだけど)ウクライナ大統領の名前を挙げながら、政治議論を展開した。
さらにはアメリカ大統領、イギリス首相、それから、あれはドイツで、それはカナダだっけ? そういうのを二人は国名や肩書をつけずに論じられるから、情けないことに僕はだんだん、どこの国の話をしているのかわからなくなってきた。
これはべつに、イリーナが外交官(あるいはその見習い)だからということではなくて、僕の職場や他のハウスメイトを含めて、けっこうみんな政治問題に詳しくて、人が集まるとすぐそういう議論をしたがる。
議論ができるというのは、自分の意見を持っているからだ。
彼らは何にでも、自分なりの意見を持っていた。人口問題、環境問題、格差問題……。それらは時に偏った意見だったり、偽善だったり、筋が通っていないこともあったけれど、とにかく何でも、自分の意見を述べた。
僕はこれまでの人生で、どちらかといえばこういうもの(自分の専門分野でないもの)に対して、意見を持たないようにしてきた。持ったところで、どうにもならないからだ。
だからこういう場は、ものすごく疲れる。みんなの意見を傾聴しつつ、自分の中で理論を組み立てて、整合性を確保しつつ、最後にはそれを外国語で発信しないといけないからだ。
僕はどうしても、正しい意見を言わないといけないという間違いを、放棄することができなかった。
お堅い話を過ぎると、これまでどこの国に行ったとか、次はどの国に行きたいとかの話題になった。これもテッパンのネタだ。
ここまで来れば、僕は基本聞き役に回れるから気が楽になる。時々振られる質問に答え、あとは二人の話に
イリーナは日本には行ったことがないけれど、ぜひ行ってみたい国の一つだと言った。ナタリアは友人が福岡に住んでいるらしい。
僕は残念ながら、ロシアにもウクライナにも行ったことがなかったし、ウクライナにいたっては、何があるのかさえ知らなかった。
頑張って頭の隅々に検索をかけてみて、ようやく見つけたのが「チェルノブイリ」という単語だったけれど、それはそのまま、そっとしておいた。
驚くべきことに、イリーナはヨーロッパをほぼ全制覇していた。ここでの勉強が終わったら、残る数か国を訪れるらしい。
そう、この時彼女は「したい」という願望や希望形ではなくて「
「あとはカンボジアとか、タイも行ってみたいな。仕事始めたらしばらくは時間とれないと思うけど、いつかアジアの国々を巡ってみたい。もちろん、日本もね」
イリーナの笑顔に、僕は曖昧に笑い返すしかできなかった。
『その時は、僕が案内するよ』
頭には浮かんでいたけれど、実現可能性を考慮してしまった結果、口に出さなかった。
「私はメキシコ!」
「メキシコ?」
「うん。チチェン・イッツァ」
意外だ。ナタリアが、古代遺跡に興味があったなんて。
どちらかといえば、
「ナオは?」
「うーん……。僕はまだヨーロッパの国あんまり行っていないから、こっちにいる間に見ておきたいな」
「日本からだと、遠いもんね」
数年のうちに日本に帰るかもしれないことは、初めのほうで言ってあった。
「まずはどの国?」
「え? いろいろあるけど……」
僕はヨーロッパの国々を思い浮かべた。ウクライナやロシアを挙げたら「おべっか」みたいだし、どちらかを選ぶことなんてできない。
あれ、そもそもウクライナとロシアって、ヨーロッパだっけ?
「ポルトガルかな」
「ポルトガル! 私も好き。ポルトガルで、何したいの?」
「うーん、とりあえず、タコ食べたい」
それから僕たちは、どこの国に行って何をしたいか、好き勝手に挙げていった。いざ考えてみると、僕でさえ、やりたいことがたくさん出てきた。
イリーナはインドで本場のヨガを学んでみたいと言うし、ナタリアの興味はアマゾンの奥地にまで及んだ。
夢を語る二人はさっきの政治議論のときよりもずっと幼く見えて、少女のようだった。
僕のペリエは残り少ない。飲みきったらこの時間が終わってしまうのかと思いながら、淡くなった炭酸水を舐めた。
改めて見比べると、この二人はすごく対照的だと思う。
ナタリアは背が小さくて、イリーナは高身長だ。
ナタリアは真っ黒で真っ直ぐなロングヘア。「漆黒」という表現がピッタリで、もしかしたら染めているのかもしれないし、ストレートパーマかもしれないけれど、僕にはその辺はわからない。
イリーナの金髪は、高い位置で一つ括りにしていて、おろしたら肩くらいだろうか。無造作にまとめられた髪は所々飛び出して、細かな凹凸が濃淡を与えている。
ナタリアは目もくっきりと黒く囲われていて、薄い唇には鮮明な赤、コントラストの強い顔だ。
イリーナはたぶん、メイクをしていないんじゃないかな。「女性の『すっぴん』は完全なノーメイクではない」なんて聞いたことがあるから、これは僕の憶測の域を出ないけど。
同じ白人でもナタリアは本当に白くて、白磁のようと言ったらいいだろうか。それに対してイリーナは、日焼けしているのか、快活そうな色をしている。
ナタリアはいつもクールに澄ました顔しているけれど、たまに笑う時、鼻にクシャっと
イリーナは口角をめいっぱい左右に広げて、白い歯を見せて笑う。
でも二人とも、本気のときには大口を開けて豪快に笑って、それを見ている僕も気持ちよかった。
そして余談だけど、本当に余談なんだけど、イリーナは胸が大きくて、ナタリアはお尻が大きい。
ナタリアはいつも決まって全身を黒い服に包んでいて、一緒に話していた後なんかに彼女が立ち上って、その
「ナオ、コーヒー要る?」
ナタリアは既にキッチンに立っていて、自分のマグカップをカウンターに置き、ケトルに水を汲みながら僕に聞いた。
「あ、うん、ありがとう」
遠慮するのはかえって失礼だ。僕はこれを、呪詛のように常々自分に言い聞かせている。
「イリーナは? まだある?」
「うん、大丈夫」
その声を追って、僕はイリーナのほうに視線を戻した。
フードのついたスウェットに、ジーンズ、足元はスニーカー。いつもバッチリ決めている感じのナタリアと違って、外見にはあまりこだわらないほうなのかな。
それでもだらしない印象を与えないのは、センスの良さか、素材の良さか、どちらだろう。
イリーナも僕のほうを見ていたことに気が付いて、僕は慌ててポテトチップスを口に詰め込んだ。
ナタリア、早く僕にコーヒーを……!
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