第4話 チェルノブイリ・1


 その日からナタリアは、週二、三回のペースでイリーナを連れてくるようになった。数日おき、ときには連日で、家に帰るとリビングから賑やかなノンストップ・ロシア語会話が聞こえてくる。こう何日も、よくネタが尽きないものだ。


 もちろん僕は、そこに干渉したりしない。

 リビング・ダイニング・キッチンのある、共用コモンエリアのドアには窓がついているけれど、リビングの位置からは見えない。僕は『Дa Дa Дaダー ダー ダー』を聞きながら、靴音を忍ばせて自室へ潜った。


 最初の日に引き続き、イリーナは遅くても八時過ぎには帰っていった。そういう日には、僕は少しの間空腹を我慢して夕食の時間をずらす。

 彼女が帰るときには廊下が賑やかになるので、すぐにそれとわかる。時には廊下で他の住人と遭遇することもあって、話し声から察するに、イリーナは誰とでもすぐに打ち解けている様子だった。

 打ち解けるというよりも、最初から垣根がないのかもしれない。


 一度、たぶんだけれど、イリーナが訪ねて来ているときに影男カゲオ君がキッチンに入って行ったことがある。程なくして出てきたみたいだけれど、彼があの二人にどう対処したのかは、大変気になるところだ。


 影男君というのは、もちろん本名ではなくて、彼はイスラエル人で、ひょろっとしていて、髪は黒く、顔は白い。そして滅多に姿を現さないレアキャラだ。


 ご飯もほとんど外で食べているのか、キッチンもあまり使わない。たまに休日の朝、パンやシリアルをそそくさと用意して、部屋に持ち帰るのを目撃する。

 冷蔵庫の彼のスペースにはごくわずかなジャムや果物と、それによくわからない飲料のボトルがあって、夕方その飲料を取りに出現することもあるのだけれど、それも不規則で捉えどころがない。


 共用エリアにたまたま人が集まっているときがあって、そこへ影男君が入って来ても、彼は何だかんだ言って(というより何を言ったかよく聞こえない)すぐ部屋に戻っていく。

 その一貫した姿勢は、決してSocialisingソーシャライジングをしないぞという確固たる信念さえ感じさせた。


 その激レアぶりに、僕は最後まで彼の本名をちゃんと覚えられずにいた。

 でもイスラエルという国はけっこう優秀な学者を輩出していて、彼も僕たちの前ではあんなだけど、実は頭の中ではすごいことを考えている天才だったりするんじゃなかろうかと、僕はひそかに期待している。



 その日は確か、緊急案件が立て続けに舞い込んで、僕の頭は疲弊していた。仕事から帰ったら、すぐにでも熱いブラックコーヒーを浴びたくて、自室に鞄を置くなりキッチンに突入した。

 静かだったから、完全に油断していた。

 そこに彼女はいたのだ。


 ふとリビングに目を遣ると、イリーナがソファのこの前と同じあたりに胡坐あぐらをかいて、その上に大きなサラダボウルを抱えて食べていた。

 野菜のイラストが刷られたテイクアウトの紙袋がローテーブルに乗っている。

 当然、疑問符はたくさん湧いたけれど、ナタリアが連れてきたのはまず間違いないので、とりあえずそれで自分を納得させた。

 それよりも、対策を講じないと。


 こういうとき「いらっしゃい」に該当する言葉が英語にもあればいいのだけど、残念ながら良いものが思いつかない。

 僕の家ではないし、彼女はナタリアを訪ねてきたのだから「welcome」というのもおかしいし。


「やあ、イリーナ」


 彼女がサラダボウルから顔を上げかけたところで、僕は何とか先に声をかけることができた。

 名前、合っているだろうか。発音、大丈夫だっただろうか。答えを求めて、イリーナの顔を注視する。


 イリーナはニッコリ笑顔で僕に手を振った。口の中は、たぶん葉っぱでいっぱいだ。

 今は答え合わせのときじゃないな。


 僕もオーバーな笑顔を作ってみせてから、電気ケトルに水を汲み始めた。

 ところが、イリーナは驚異的な速さで口内の野菜類を処理した。


「ナタリアはちょっと買い物に行ってるの。すぐ戻ってくるわ」

「ああ、そうなんだね」


 戻ってくるのを待って、一緒に食べるとかじゃないんだ。

 そういう自由なところ、なんかいいな。

 話題、どうしよう。


「彼女の英語、ロシア訛りがきつくてわかりにくいでしょう?」

「うん、そうだね」


 電気ケトルの水は、まもなく「MAX」に到達する。


「あ、何か飲む? 紅茶とか……、コーヒー、あと炭酸水もあるけど」


 テーブルの上に飲み物がないことを確認して、僕はイリーナに尋ねた。

 イリーナはこの前、ミルクティーを飲んでいた。案の定、彼女は紅茶を所望した。

 僕は普段、紅茶はほとんど飲まないけれど、ダニエルがティーバッグの缶を持っていて、好きに使っていいよといつも念押ししてくれていた。


 ケトルを台座に据えて、スイッチを押す。これで沸くまでの間は沈黙の言い訳が立つ。


 窓辺のペリエに挿したミモザは、すっかりミイラになっていた。

 これはジェシーがボーイフレンドからもらってきたやつだ。しばらくダイニングテーブルに放置されていて、邪魔だから捨てよう派と、せっかくだから飾ったら派に分裂した。最大の争点は、飾るにしても花瓶がないことだった。


 シェアハウスにはみんな、余計な物は持ち込まない。唯一の例外はダニエルだけど、彼が花瓶なんて洒落たもの持っているはずもない。

 じゃあたくさんあるダニエルのグラスを一つ生贄にしようという案が出て、ダニエルにも異存はなかったけれど、いざ花を入れてみるとイマイチ見栄えがしなかった。


 やっぱり捨てようか、と世論が傾きかけたところで、僕はその時飲み終えそうだったペリエを提供してみた。ボトルの口は小さいけれど、捨てるくらいなら何本かだけ飾ってみるのもいいと思った。


 僕はそれを、キッチンの小窓に置いた。テーブルの上だと、誰かがこかすといけないと思ったからだ。キッチンは一番みんながよく使う場所だし、リビングに近寄らない影男カゲオ君でさえ、この辺りは行動範囲に含まれている。

 ペリエの鮮やかなグリーンと、ミモザの黄色、その先に広がる空の色。これにはジェシーもみんなも納得してくれて、紛争は収束した。


 ところが、問題は全て片付いたわけではなかった。ジェシーは花の世話を一切しなかったのだ。しばらくして、水が減っていることに気付いて足そうとすると、ぬめりがあって、それからは僕が時々水を換えることにした。

 明日になってもこのままだったら、ゴミ箱に葬ってあげよう。


 お湯が沸いた。

 僕はコーヒーと紅茶の準備をするのに精いっぱいで、話題を捻出するには至らなかった。


 紅茶の入ったマグカップ、ティーバッグを取り出すための小皿とティースプーン、それにダニエルのスティックシュガーを二本携えて、イリーナの元に向かう。

 これって、一生懸命おもてなししているように見えてしまうだろうか。

 僕は冷蔵庫からミルクのボトルを取り出して、「好きに使って」とテーブルの上に置くと、急いでキッチンに戻った。


 ボトルのまま、というのも無骨だけれど、当人の好きな配合で調整してもらったほうがいいだろうし、他のみんなもこうしているのを見たことがある。

 お店で出てくるようなミルクピッチャーなんてもちろん僕は持っていないし、万一持っていたとしても、そこまでするのは変だろう。彼女は僕の客人というわけではないのだから。


 でも、このシェアハウスを訪ねているのだから、ある意味僕の客でもあるのだろうか。この家の住人として、彼女をもてなすのは至極真っ当なことだったりするのかな。


 僕はまだ、イリーナのことを「ハウスメイトの友達」というカテゴリーに置いていた。「友達の友達」は、いつからただの「友達」になるのだろう。僕には友達フレンドの定義がわからない。

 ナタリアが会ったばかりの彼女のことをそう呼んでいたことなんて、すっかり頭の中から抜け落ちていた。


 定義や分類は後で考えるとしても、このまま部屋へ帰るのは何だか薄情者のような気がした。

 せめてナタリアが帰ってくるまでの間、話し相手か、もしくは茶飲み友達でも務めてみよう。


 ナタリアがすぐ戻るという言葉を信じて、僕はコーヒーを引き連れて、この前と同じダイニングテーブルの端っこに収まった。


「今、仕事から帰ったところ?」


 腰を下ろすとすぐに、イリーナが聞いてきた。


「うん。今日はちょっと……いつもより、忙しくて」


 マグカップに顔を近づける。濃いめに淹れたコーヒーは、香りをたっぷり吸い込むだけで鎮静作用を発揮する。

 たくさん飲んだら、胃に穴が開きそうだけど。


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