第2話 ミモザ・2


 覗き窓から中を確認する。

 さっきよりも低い位置から差し込む太陽光が、キッチンのウッドフロアの上を跳ねている。聞こえてくるのはロシア語だから、今も部屋の中にいるのはあの二人だけなのだろう。

 ダニエルでなくとも、他の住人がいてくれたら、少しは心強いのだけど。


 僕は小さく息をついて、決心が鈍らないうちにドアを押し開けた。すぐさまリビングの方角を警戒する。

 二人はポテトチップスの大袋をパーティー開きにして、マシンガントークを繰り広げていた。

 ロシア語の持つ雰囲気もあるのかもしれないけど、なんかちょっと、恐い。


 やっぱり、コーヒー淹れてさっさと部屋に戻ろう。

 二人ともどうせ、話に夢中で僕のことに気付いていないし。でも、さすがにお湯を沸かし始めたら気付くだろうな。ここの電気ケトル、うるさいし。

 とりあえず挨拶だけはしておかないと、まずいかな。


 右が電気ケトルのあるキッチン。左が二人のいるリビングスペース。視線を往復させて、やっぱり右に行こうと体をひねった時、顔を上げたイリーナと目が合った。


「ナオ、終わった?」


 毎度のことだけど、よくこの人たちは他人の名前を、しかも外国人の名前を、こうもあっさり覚えられるよなと思う。

 僕なんて、部屋に帰ってから(イリーナ、イリーナ、イリーナ……)と何度も頭の中で唱えて、ついでにメモして、やっと覚えた。それでも自信がなくて、ナタリアがもう一度彼女の名前を呼ぶまでは、その名を口にしないと決めている。


 ちなみにダニエルはこういうのがてんでダメで、僕の名前を覚えるまでに十回くらい間違えた。僕の名前が短縮されたのは、あいつのためだ。


 僕はコーヒーを諦めて、ダイニングテーブルを迂回ついでに冷蔵庫からペリエのボトルを取り出した。お湯を沸かしている間に気が変わって、淹れたコーヒーを手にそのまま部屋に戻ってしまう恐れがあった。


 ナタリアはさっきから、マグカップを左手に、右手でスマートフォンをいじりながらイリーナと話していたけれど、それはいつも彼女が持っているスマートフォンとは色が違っていた。

 イリーナは時々それを覗き込んで、たいていはソファに悠然ともたれながら、常に話すか食べるかのどちらかで忙しくしていたけれど、今は僕の着席を待っているようで、部屋は急に静かになった。


 やっぱり、邪魔をしてしまったかな。ナタリアがスマートフォンを見ながらロシア語で独り言みたいなことを言って、イリーナが笑って、あとはポテトチップスがバリバリ砕ける。

 僕はちょっと悩んだ後、少し離れたダイニングテーブルの端っこからチェアを引っぱり出して、二人の中間くらいを向いて座った。


 べつにこれは、ビビって近づけないとか、そういうことじゃない。

 リビングにはローテーブルを囲んでソファが二台。一つは二人掛けで、もう一つは三、四人掛けの長いやつ。そしてそれぞれにナタリアとイリーナが座っている。


 既知の間柄であるナタリアの隣を選ぶと、触れ合う近さで並ぶことになるし(しかも彼女はソファのど真ん中に陣取っている)、広いほうのソファを選べば、わざわざ初対面のイリーナのそばへ行くことになる。


 イリーナはソファのやや右寄り、つまりナタリアに近いほうに座っているから、そうするとイリーナは僕とナタリアに挟まれるかたちになって話しづらいだろうし、僕も話しづらい。

 鋭角三角形を描けるこの位置が、三者会談には最も適切だと僕は思うのだ。


「仕事終わったの?」


 腰を落ち着けると(と言っても僕自身は全く落ち着かないけれど)、イリーナがもう一度聞いてきた。


 ペリエのラベルから視線を上げると、イリーナは両手を前に出して、十本の指でカタカタと、キーボードを打つ真似をしてみせた。

 さっき僕がこの部屋から一旦退避するための言い訳エクスキューズと共に使ったジェスチャーだ。


「ああ……、うん。まあ」


 部屋でゲームしてました。ごめんなさい。


 僕は急いでキャップをひねり、ペリエを流し込んだ。粗い炭酸の粒々が、ジリジリと粘膜を攻め立てる。思ったより量が多くて、僕は力任せに飲み下した。

 やばい、涙目になりそうだ。


「よかったらどうぞ」


 イリーナが展開されたポテトチップスの袋を、少しだけ僕の方向へとずらした。

 ナタリアは相変わらず人のスマートフォンを、我が物のようにスワイプしている。


「ありがとう」


 遠慮するのはかえって失礼だ。僕は袋の上からポテトチップスを一枚拾って、まだ刺激の残る舌に乗せた。サワークリーム&オニオンの酸っぱさが広がる。


「見て。彼女、すごくクールじゃない?」


 油断したところへ、今度は右側からの奇襲だ。


 ナタリアが腰を浮かせて、持っていたスマートフォンを僕に差し出していた。

 僕は立ち上がって覗き込もうとしたけれど、ナタリアがもう一段階僕のほうへと突きつけるので、仕方なくそれを受け取った。


 宮殿みたいな立派な装飾の部屋の中で、スーツを着た男女がこちらに笑顔を向けている。構図はいかにも記念写真で、ただ画面の中央に並んで立っているだけなのに、どうしてこうも絵になるのだろう。


「イリーナは、外交官なんだって」

ってことよ」


 ポテトチップスを次々と口に放り込みながら、イリーナが訂正した。


 外交官の見習いのようなことをしていたけれど、もっと勉強したくなって、猶予ゆうよをもらってこっちに留学してきたらしい。


 たぶんそんなところだと思うけれど、何しろ普段使わない単語が多いし、イリーナは口の中ポテトチップスだらけだし、ナタリアはすぐに口を挟んでくるし、しかもその英語はなまりが強すぎるしで、僕のヒアリング能力ではそれだけ拾うのがやっとだった。


 ダニエル、早く帰って来いよ。


 手元の画面に視線を戻すと、今度はイリーナが立ち上がって、僕の元までやってきた。スマートフォンを取り返しに来たのだと思って差し出すと、彼女は画面を拡大してくれただけで、また僕の手の中に戻って来た。

 僕はまだ、左手にペリエをぶら下げていた。


 こうして見ると、なるほど写真の女性はイリーナっぽい。恥ずかしながら僕は外国人女性の判別が苦手で、明日街でイリーナに遭遇したとしても、そうと確信できない自信がある。

 だから絶対に、僕のほうから声をかけたりはしない。


 それに写真の彼女は、いかにもキャリア女性といった感じで、今ここにいるイリーナの、ラフでほがらかな雰囲気とはまるで違っていた。

 黒っぽいスーツに白のブラウス。首から提げたネームタグの、ブルーのストラップだけがすっきりと色彩を添えている。きちんと整えられた黄金色の髪が輝いている。


 イリーナは、隣のおじさんを指して「Ministerミニスター of ナントカ」と言ったように思う。写真に集中しすぎて聞き逃してしまったけれど、つまり大臣ということか。

 この人も、背が高くてスッとして、日本で大臣と聞いてイメージするよりもずっと若く見える。端的に言えば、カッコイイ。

 そんな偉い人に会えるということよりも、そんな人と写真を撮ろうという度胸が、僕はすごいと思った。


 イリーナはさらに何枚かの写真を見せてくれたあと、他も好きに見ていいよとスワイプのジェスチャーをして、ソファに戻って行った。

 僕もダイニングテーブルの隅に戻ってペリエのボトルを脇に置き、汚れていない指を選んでスワイプしてみたけれど、ナタリアのように他人のスマートフォンを自在に閲覧する胆力が備わっているわけじゃない。


 さらに付け加えると、写真を鑑賞しつつ、場合によっては感想を述べながら、それと同時に二人の会話を追いかけられる自信が僕にはなかった。表情や身振りが確認できるか否かは、難易度に格段の違いを生じさせる。

 

 それにイリーナのほうでも、僕が写真をどれだけ入念にチェックしているかは全く関心がないようなので、結局僕は会話を優先することにした。

 しばらく写真を見るふりをしてから、適当に何枚か進めた状態でスマートフォンを返却しに行くと、イリーナはそれを、わざわざ顔を上げて受け取ってくれた。


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