キミへと続く青い空

上田 直巳

第1話 ミモザ・1


 僕がイリーナに出会ったのは、もう何年も前、僕がまだあのシェアハウスに住んでいた頃のことだった。

 住人はほとんどが学生、といってもみんな修士マスター以上で、互いに干渉しすぎず、適度な距離を保った、大人な付き合い方ができていたと思う。

 それが僕には、とても心地好かった。


 ずいぶんと日が長くなってきて、帰宅してもまだ、キッチンの窓から見える空が青かったのを覚えている。

 窓辺に置かれたペリエのボトルの中で、ミモザの花が枯れかかっていたから、あれはたぶん三月の半ばくらいだったのだろう。


 そのペリエの水を換えていると、玄関のほうから賑やかな女性たちの話し声が近づいてきた。何を言っているのかはわからないけれど、たぶんロシア語だ。


 ペリエにミモザを挿しなおして、元の位置に戻す。振り向くと、ちょうどダイニングテーブルの向こうでドアが開いた。


 最初に入ってきたのはハウスメイトのナタリア。僕に気付いて声をかけると「友達を連れてきた」と後ろの女性を引き合わせた。


 名前はイリーナ。出身はUkraineユークレインで、それがウクライナのことだと僕の脳が変換するまで、数秒を要した。


「帰りのバスで出会ったの。やたら大きな声で『Дa Дa Дaダー ダー ダー』言ってる人がいるなって思って」


 え? ……それで、話しかけて、連れて帰ってきたの?

 何なのこの人たちの、コミュ力の高さ!?


 英語だとSocialisingソーシャライジングという。

 人と関わって、交流して、どんどん世界を広げていく。

 僕はそれが苦手だ。


 僕たちは握手を交わして、簡単な自己紹介をした。

 イリーナは濃い金髪で、意志の強そうな、くっきりと大きな青い目をしていた。彫りが深いという点ではナタリアも一緒だが、目つきも鼻筋もシャープな印象のナタリアと比べて、何と言うか、肉厚な感じがする。

 身長は僕とそう変わらないくらいだから、女性としてはかなり高いほうだろう。


 ナタリアはイリーナを奥のソファに座らせると、大股で部屋を横切って、キッチンで電気ケトルにお湯を沸かし始めた。

 しまった、先を越された。


「何飲む? コーヒー、紅茶……、ベリーティーもあるわよ」


 ナタリアが自分のカップボードを漁りながらイリーナに聞いている。さっきはロシア語だったのに、僕がいるからか、今は英語だ。


 僕は居たたまれなくて、その場をそっと後にした。


 こんな日に限って、おしゃべりダニエルは帰りが遅い。いつもだったら今頃、ソファでピザ食ってるのに。


「ナオも、こっち来ない?」


 呼び止めたのは、イリーナだった。振り返ると、青い双眸が真っ直ぐにこちらを見ている。三月の空よりも濃い、美しい青だった。


「そうよ。座りなさいよ。あなたも何か飲む?」


 ナタリアもそう言って、僕に同席を促した。


 僕はそもそも、コーヒーを飲もうとここへ来たのだった。

 でもナタリアが電気ケトルを使い終わるのを待って、もう一度お湯を沸かして、コーヒーを淹れるまでの長い時間は、僕には苦行すぎる。

 第一、ナタリアが終わってすぐにケトルを使うっていうのも「僕さっき使おうとしてたんですけど。横取りされたんですけど」と言っているみたいで感じ悪いじゃないか。


「えっと……。ごめん、まだちょっと、仕事が残ってて。後ででもいいかな?」


 もちろん嘘だ。

 僕には美女二人とおしゃべりなんてスキル、ありましぇん!


 最後の一言は、罪悪感から付け加えたものだった。職場やシェアハウスで何度か耳にするうち、僕も最近使えるようになった。


「じゃあ、終わったら戻って来てね。絶対だよ? 何時でも、待ってるからね」


 イリーナは僕の言葉を正面から受け止めてくれた。

 彼女の笑顔には、説得力があった。


 うん、またあとで、と言って部屋を出ると、残った二人はロシア語で話し始めた。『Дa Дa Дaダー ダー ダー』が飛び交う。

 たぶん、日本語で『うんうん』と相槌あいづちをうつのに似ているのだと思う。ナタリアがソファに寝そべって大声で電話しているときに、頻出する言葉だ。


 僕はウクライナの人がロシア語を話すことを知らなかったし、ウクライナ人という存在を意識したのもこれが初めてだった。

 それまでは世界史や地理で耳にしただけの遠い国の名前が、僕の人生の中に実体を伴って現れた。




 さて部屋に戻ってきたものの、どうしよう。


 仕事をやろうと思えばできる。たぶんやらないであろうことを前提で、データを一部持ち帰ってきたから。

 そしてせっかく持って帰ってきたのだから、少しくらいはデータ処理しておこうかな、という迷いはある。

 でも、その前にコーヒーを飲もうと思って、キッチンに行ったんだよなぁ……。


 スマートフォンを手に取ると、流れるような動作でベッドに寝転がり、オンラインゲームのアプリを起ち上げた。クリスマス休暇が暇すぎて始めたやつだ。

 最初の頃はかなりハマって、休暇明けには仕事中も気になってしまうくらいだったけど、このところ急激に意欲が減退している。

 たぶん、時間の無駄だということに気付いてしまったんだ。


 それでも辞める決心がつかなくて、とりあえずログインボーナスをもらうために日に一回は起動している。それも忘れる日が多くなってきた。たぶんもうすぐ、本当に辞めちゃうんだろうな。

 一緒のグループでプレイしている仲間に申し訳ないな。でも、僕が抜けても、またすぐに新しいメンバーが入ってくるんだろうな。


 そんなことをグダグダ考えながらも、ログインすれば溜まっていたクエストを消化したくなるし、グループチャットの内容が気になるし、自動回復する体力を使っておきたくなる。

 気がつけば、三十分が経過していた。


 あの二人、まだリビングにいるんだろうか。

 戻ってくるまで待ってるなんて、どうせ社交辞令だろうけど。僕のことは忘れて、二人で楽しくおしゃべりしているんだろうけど。


 でも、本当に待っていたらどうしよう。


 このシェアハウスは、各部屋の防音はけっこうしっかりしていて、ダニエルが大音量でテレビを見ながら笑い転げていても、自分の部屋にいると気づかないことが多い。

 廊下に続くドアを開けて、初めて音が氾濫はんらんする。

 案の定、ベッドに起き直って耳を澄ましてみても、リビングの様子はわからない。


 いきなり行って、何を話したらいいのだろう。英会話云々うんぬん以前に、僕には決定的に会話術が欠乏している。

 ダニエルがまだ帰ってきていないことだけは確かだ。あいつは歩く騒音発生装置だから、廊下を通るたびに現在地をお知らせしてくれる。


 クリスマス休暇の少し前には、こんなことがあった。

 共用のオーブンに、冷めたピザが数切れ放置されていて、犯人はダニエルに違いないとみんなで結論付けたけれど、撤去要請を出そうにも肝心の本人が見当たらない。

 キッチンにはだんだん人が集まってきていて、血の気の多いナタリアがダニエルの部屋に殴り込みをかけようとしたところで、ジェシーが現れた。


 ダニエルは少なくとも昨日から不在だと断言する彼女は、その行先を知っていたわけではないけれど、根拠はだと言った。全員が苦笑しつつ同意した。

 ああ、みんな同じことを思っていたんだなと、僕は少しだけ気を良くしていた。


 結局、週明けになってダニエルがふらっと現れて、金曜日(つまり僕たちが騒いでいた前日)から、友達とラスベガスに遊びに行っていたとぬかしやがった。

 ダニエルは女性陣からたっぷり説教されて、ついでに共用コモンエリアの使い方が雑だとか、使ったら片付けろとか、溜まっていた不満も上乗せされて、こうして「冷めたピザ事件」は幕を閉じた。


 そんなダニエルだけど、いや、だからこそか、メンタルは怪物級だ。誰かが話していると必ずその中に入っていくし、物怖じなんていう言葉は、たぶん彼の辞書にはない。

 だから、今日みたいな日に限っては、彼の存在が頼もしいのだけれど……。


 時計の針は一歩一歩進んでいく。「ちょっと仕事してくる」と言って、一時間も経ったら長すぎだろうか。

 いい加減、コーヒー飲みたいし。

 そろそろお腹空いてきたし。


 正直、話してみたい気持ちはある。

 ものすごく甘ったれた根性だけど、顔を出しさえすれば、あとは向こうで話を広げてくれるんじゃないかという予感もあった。

 日本から遠い空の下、僕だって、孤独になるためにここへ来たわけじゃない。

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