第107話 逃避行 6
女に案内された洞穴は、ダグラスが思っていたよりも奥行きがあった。
これは自然にできたものではない。
魔法が使えなくなった今では作れそうにないので、以前からあったものだろう。
「よくこんなところがありましたね」
「元々は熊の住処だったのを広げたのよ。もう今では無理ですけどね」
「おっと」
ダグラスは石のような、なにかを蹴ってしまう。
「失礼、ここに大事なものでも置いていましたか?」
ダグラスが足元を確認しようとする。
「見ないで! そこにあったのは食べ終わったあとのゴミだから……」
放置していたゴミを見られるのが、よほど嫌だったのだろう。
彼女は慌てて“見ないでほしい”とダグラスに頼んだ。
ダグラスも安全な寝床を提供してくれる相手の機嫌を損ねるつもりはない。
極力足元を見ないようにするべきだと思った。
(ズボラな人だなぁ)
だが失礼だとわかっているものの、寝床にゴミを放置する杜撰さに心の中で呆れてしまう。
この穴の深さは十メートルほど。
入口付近に残飯があれば奥にいても臭うだろう。
野生動物を呼び寄せる事にもなるので、危険でもどこかに埋めておくべきである。
やはり一晩以上いる場所ではなさそうだ。
最奥に着くと、そこには毛布が敷かれていた。
周囲には箱や小物が雑然と置かれている。
どうやら本当にここに住んでいるらしい。
彼女は毛布の上に座ると、自分の隣に座るように仕草で示す。
しかし、ダグラスは座らなかった。
武器を持っていない女とはおえ、相手はエルフである。
なにをしてくるかわからない以上、警戒は必要だった。
「ハードビスケットと干し肉、あとは豆くらいしかないですが、それでいいですか?」
ダグラスは地面にカンテラと荷物を置き、食料を取り出そうとする。
その問いに女はモジモジとして、すぐには答えなかった。
不思議に思いダグラスが顔を上げると、すぐ近くに女の顔があった。
「長い間、ずっと誰かと話す事なんてなかったから……。少しお話ししない? 外の事を知りたいの」
彼女は食事よりも、会話を求めてきた。
「……いいですよ」
ダグラスは一瞬戸惑ったが、すぐに了承した。
会話は重要である。
相手の素性なども知りたかったため、断る理由もない。
「じゃあ、こっちへどうぞ」
なぜか彼女は隣に座る事を執拗に勧めてくる。
その事をダグラスは不審がるが“人恋しいのだろう”と思い、気にしなかった。
彼女の足運びなどから戦闘の素人だというのはわかっている。
それにここで眠るのなら、どちらにせよ近くで寝る事になる。
相手の動向を見ておくには、相手の懐に飛び込むのが一番だった。
言われるがままに女の隣に座る。
そうするのが一番いいと思ったからだ。
すると女は嬉しそうに笑った。
「ずっとここに独りでいたんですか?」
まずはダグラスが話を振る。
「ううん、前は違ったんだけど魔法が使えなくなってから森の中もおかしくなってからは誰とも会わなくなって……」
彼女の言葉に、ダグラスはどこか引っかかりを覚えた。
しかし、それがどういうものかまで、はっきりとはしなかった。
「森の外に出ようとはしなかったんですか?」
「出ようとしたんだけれど、イビルトレントが怖くて……」
怯えで声を震わせながら、彼女はダグラスに寄りかかってきた。
ふわりと甘い香りがダグラスの鼻孔をくすぐる。
だが、ダグラスの心はマリアンヌに捧げている。
触れる位置に美形のエルフの女がいるからといって、心が揺れ動く事はない。
そっと優しく彼女の頭を離す。
彼女は不満そうな表情を見せた。
「毛嫌いするほど、私ってブサイクに見える?」
「いえ、そうではないですけど……。僕には好きな人がいますので」
「そうだったんだ」
女はニヤリと笑う。
なぜそのような反応をするのかダグラスには理解できなかった。
それにいくら人恋しくても、彼女はエルフらしくない言動ばかりしている。
そこでダグラスは一計を案じた。
「そういえば、アルベールの街で鍛冶屋を営むジョンというエルフを知っていますか? この近くの村に住んでいたヤーベンというエルフの娘婿なんですけど」
「あら、あなた。ヤーベンさんの知り合いなの!? 私も同じ村に住んでいたのよ」
彼女の返答を聞いて、ダグラスは女の首を狙ってナイフを突き立てようとした。
――だが体が動かない。
「なにっ」
「うふふっ」
女が妖艶な笑みを浮かべる。
彼女の顔をジッと見ていると、徐々にマリアンヌの顔へと変わっていった。
「マ、マリー」
ダグラスは“なぜここにマリアンヌがいるのか?”という疑問が浮かばなかった。
なぜかそのような事は思い浮かばず、ただ本人だと思い込んでしまう。
「そうよ。あなたが浮気したりしていないか確認にきたのよ」
「浮気なんてしてないよ」
「本当に? じゃあ確かめるわね」
マリアンヌは、ダグラスの首筋を舐めながらベルトに手をかける。
ダグラスは自分の体が火照っていくのを感じていた。
「あなたも触っていいのよ」
彼女がダグラスの手を取り、胸元へと誘う。
この時、ダグラスは体の自由を取り戻していた。
誘われるがままに胸に触れた。
その間にベルトを外され、ズボンの前が開かれる。
「さぁ、愛し合いましょう」
マリアンヌがダグラスのトランクスを降ろそうとする。
その瞬間、ダグラスは憤怒の表情を浮かべて、彼女の喉にナイフを突き立てていた。
「が、はっ……」
「お前は! お前はマリーじゃない!」
喉を刺されて女がよろめく。
そこをダグラスは見逃さなかった。
ナイフで胸元を何度も何度も突き刺した。
――彼女が絶命するまで。
やがてマリアンヌの姿が徐々に変わっていき、コウモリのような羽根が生えた女へと変わる。
どうやらエルフですらなかったようだ。
「これはサキュバスか……」
魔法は使えないようだが、どうやら相手を誘惑したり、相手の望む相手の姿へ錯覚する力は使えるのだろう。
これはカノンが言っていた“スキルは使える”というものなのかもしれない。
(好きな人がマリーじゃなかったら危なかったな)
マリアンヌの顔に変わった時、ダグラスは自然とそれを受け入れてしまっていた。
彼女が吸血鬼ではなく、通常の生殖行為で愛を確かめ合う種族であれば、流されるままに抱いていたかもしれない。
だがマリアンヌは吸血鬼だ。
血を吸うという行為が重要である。
ダグラスのズボンを降ろす必要などない。
彼女への愛が、ダグラスをサキュバスの魅了から解き放ってくれた。
(これが愛の力というものか)
ダグラスは先ほどとは違う、心地良い火照りを感じた。
この場にいなくとも、マリアンヌは自分を助けてくれていると思ったからだ。
しかし、いつまでも感傷に浸ってはいられない。
ひとまずサキュバスの死体を端に寄せ、もう一度洞穴の中を詳しく調べる。
すると、入り口付近にあった“食べ終わったゴミ”の正体に気づいた。
(この服装……、あの時の冒険者たちか)
――かつてアルベールの街の食料品店で、カノンに財布から金を抜き取られた男たち。
彼らもトレントをかわして、森を抜けるまでもう一日といったところまで来ていたようだ。
(彼らと会ったのは何カ月も前だったな。……なるほど、腹が空いたというわけだ。危ないところだった)
例えサキュバスに殺されなくとも、襲われて純潔を失っていればマリアンヌに殺されるところである。
二つの意味で、ダグラスは死地を脱する事ができた。
一度、外に出て血を洗い流してから、ダグラスは洞穴の中で休む事にした。
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