第106話 逃避行 5
翌朝、ダグラスは日が昇ってすぐに森の中へと入る。
彼は“朝早から移動し、昼から仮眠して、夜は周囲を警戒しながら進む”という折衷案を選んだ。
パーティーを組んでいるのならばともかく、一人では周囲警戒には限度がある。
いくら痛みを感じないダグラスとはいえ疲れはする。
疲れは判断力の低下を生み、警戒心を薄れさせる。
危険地帯と突っ切るには適度な休憩が必要だった。
(こういう時にこそ、あの水筒があればよかったな)
――軽くて水の漏れない水筒。
ダグラスはペットボトルを懐かしむ。
森の中を歩くにあたり、荷物が軽いに越した事はないからだ。
だが、かさばる荷物はドリンのホテルに置いてきたまま。
ただのないものねだりに過ぎなかった。
重い水筒で我慢する。
この森を通り抜けるのにエルフで三日かかるらしい。
ダグラスも森を歩く訓練はしていたが、一週間分の食料を用意して余裕を持たせていた。
幸いな事に、森の中へ続く道がある。
その道を辿っていけば、ユベールの住んでいた村に着くはずだ。
そこから反対側へ向かえば国境である。
トレントに襲われなければ、他の問題はないはずだ。
ダグラスは森の中へと足を踏み入れた。
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森の中は意外にも問題はなかった。
何気なく立っている周辺の木が魔物かもしれないという事以外は。
先を急ぐため足取りも自然と早くなる。
だが無理はしなかった。
“一時間ほど歩けば、十分程度の休憩を取る”という長距離移動時の鉄則を守っていた。
これも師匠から教わった事である。
ダグラスは痛みを感じないため、本人が意識しないところで無茶をしすぎる。
いつでも万全の状態で活動できるように体調の管理は徹底して仕込まれていた。
それが今も役に立っていた。
休憩毎に、大きめのハードビスケットを一枚食べる。
“お昼の時間だ”と、お腹一杯に食べれば動きが鈍くなる。
だから危険地帯では一度に食べるのではなく、少しずつ食べるようにしていた。
これも食べる喜びを知らず、食事をただの栄養補給として育ってきたからこそ身に着いた習慣だった。
だが手持ちの食料に神の食べ物があれば、そんな習慣も忘れて貪り食っていただろう。
荷物を失ったのは不幸中の幸いといったところだろうか。
(師匠も普通の子供に教えたほうが楽だったんじゃないだろうか? それとも暗殺者なんていう職業は普通の子供ではダメだったんだろうか?)
――木々のざわめきしか聞こえない森の中で一人きり。
ここが危険な場所だとわかっていても、静かなためダグラスは余計な事を考えてしまう。
もしもマリアンヌがいれば彼女の事を考えていただろうし、カノンがいれば悪い意味で彼の事を考えていただろう。
(……もう師匠に理由を聞く事もできない。カノンさんが神になれば、師匠の霊と話をする事はできるんだろうか? できるなら、あの人が神になるのも悪くないかもしれないな)
ダグラスは仮眠を取るため横になる。
もし彼の師匠が見ていれば“食後すぐに横になるのは体に悪い”と叱っていただろう。
だが、もうダグラスを叱る者はいない。
叱ってくれる者はいないのだ。
少し寂しさを感じながらも、ダグラスは眠りについた。
ダグラスが目を覚ますと、枝の隙間から夕暮れが見えた。
日が落ちるまでに少し余裕を持って起きる事ができたようだ。
まずは用を足し、食事と水分補給を軽く済ませる。
(さて、行くか)
カンテラの用意をしてから、ダグラスは歩き始める。
人間相手であれば、先に見つけられてしまう明かりは厳禁だ。
しかし、今回は木の魔物が相手である。
魔物相手だと、明かり以外にも生命反応などで自分の位置を探られてしまう。
だが人間の目では鍛えようとも、暗闇での視界は限定されてしまう。
だからカンテラの明かりで先に見つけられる危険が増そうとも、身を守るためには明かりを用意しておかねばならなかった。
ダグラスは先へと進む。
道はあるものの、徐々に草木が生えてわかりづらくなってくる。
周囲をよく調べてみると、一本の大きな木が道を塞いで見えなくしていた。
そして違う方向へと誘おうとしているかのように、他の木々が道のような隙間を開けている事に気づいた。
(これは……、トレントが迷わせようとしているのか?)
草が生えている事を疑問に思わず、道なりに進んでいたら迷うところだった。
ただの森ならばリカバリーもできるが、ここは魔物の住処となっている。
一度迷えば生きて外に出られなくなるだろう。
(これが知性を持つ魔物のやり口か。地味に厄介だな)
魔物との戦闘といえば、せいぜいがゾンビと吸血鬼を相手にしたくらいである。
ダグラスにとって、魔物は完全に未知の相手だった。
もう少し冒険者としての経験を積めば戦闘も経験しただろうが、カノンと出会ってしまったせいで雑用だけしか経験できなかった。
人型以外の魔物と戦う機会がなかったのが惜しい。
だが、ないものねだりをしても仕方がない。
ダグラスは正しいであろう道を進む。
日が沈もうとする頃、ダグラスは周囲に気配を感じた。
誰かがどこかにいるというものではない。
――周囲のどこにでもいる。
そんな気配だった。
不気味さを覚え、ダグラスはカンテラの火をつける。
そしてカンテラを手に持ち、顔を上げた時――目の前の木に浮かび上がった人の顔と視線が合った。
危険を感じて、とっさに横へ飛びのく。
すると、まるで鞭のようにしなった枝が、ダグラスのいた場所に叩きつけられた。
「くそっ、もう動き出すのか!」
ダグラスは木から距離を取った。
すると木の根が地面から這い出てきて、まるで虫のように歩き始める。
だがその速度は遅い。
慌ててその場から離れた。
しかし、逃げた先にもトレントはいた。
そのトレントも枝を叩きつけてくる。
幸いな事に、トレントの予備動作は大きかった。
ダグラスならば予備動作を見てから十分に躱す事ができた。
だが、よける事はできても攻撃はできない。
木に有効な武器など、手持ちのカンテラくらいだろう。
だがトレントは無数にいる。
一匹倒したところで大差はない。
むしろ森の中で明かりを失うほうが危険だ。
動きは鈍いので、距離を取ればいい。
(大きいし強そうだ。だけど、基本はゾンビと同じ。身動きが取れないほど周囲を囲まれなければ逃げ切れる)
ダグラスは冷静に周囲を見回す。
トレントは密集しているわけではなく、十メートルに一体いるといった様子だった。
普通の木かどうかは、木の根っこで判断できた。
木の根が不自然に地面から離れていれば、それはトレントの可能性が高い。
危険性の高い木の近くでは警戒しながら道沿いを走る。
(これなら適度に休憩を取ればいける!)
動きの遅いトレント相手ならば容易に避ける事ができる。
“逃げるだけならば大丈夫だ”と、ダグラスは自信を持った。
しばらく先を進むと、小川が流れているところについた。
まだ危険ではあるが、水は補充できる時に補充しておきたい。
ダグラスは空になった水筒を取り出し、水を汲む。
その時――
「あの、こっちです」
――背後から女に声をかけられた。
まったく気配を感じなかったので、ダグラスはナイフを抜き、構えながら後ろを振り返る。
「きゃっ、やめてください!」
そこにはエルフの女がいた。
マリアンヌと変わらぬ年頃に見えるので、おそらく成人はしているのだろう。
「イビルトレントに襲われているんですよね? 穴の中なら入ってこないから安全ですよ」
少女が指差す先を照らすと、川沿いの大きな枯れ木の下に大きな穴が見えた。
穴の周囲には踏み荒らされたあとがあり、以前から人の出入りがあったように見える。
「子供の頃に友達と掘って隠れ家にしていたところなんです。しっかり作ってあるので崩れたりもしませんよ」
「……見返りは?」
親切心での行動かもしれないが、相手はエルフである。
見返りを与えねば、なにをされるかわからない。
ダグラスは“なにが欲しいのか?”と確認する。
エルフの女は照れながらお腹を押さえた。
「お腹が空いているので、ご飯をいただけると助かります」
(異変から逃げ遅れたエルフか……)
逃げ遅れて、これまでずっと穴の中に隠れていたのかもしれない。
予想よりもすんなりと森を通り抜けられそうなので、食料を提供しても問題はないだろう。
一晩の安全地帯と、食料を秤にかける。
――トレントとエルフ、どちらが危険か?
エルフの事は信用できないが、命までは取ってこないだろう。
もし狙ってきても、魔法を使えない女エルフならば対処はできる。
「では一晩、宿をお借りします」
「ええ、どうぞ」
エルフの女は嬉しそうにしていた。
異変が起きてからずっと独りだったのなら、心細かったのかもしれない。
だがダグラスは“エルフの女が人間の男を寝床に不用意に招きいれるはずがない”と警戒を忘れてはいない。
――彼女がどのような理由で声をかけてきたのか?
――エルフの村は、今どうなっているのか?
そういった情報を確認するため、彼女の誘いに乗ったのだった。
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