第9話 ゼランへの道中 4

 ダグラスは死を覚悟する。

 だが、生きる事を完全に放棄したわけではない。

 震える体を動かし、一歩後ずさった。

 足がカノンの体に当たり、一瞬そちらへ気を取られる。


(しまった!)


 後悔した時にはもう遅い。

 気を逸らした一瞬の隙に吸血鬼は距離を詰め、ダグラスの両腕を掴んでいた。


「ねぇ、血をちょうだいよ」


(勝手に飲みやがれ! この化け物め!)


 ダグラスは死を覚悟したが、吸血鬼は嚙みついてこなかった。


(俺が“飲んでもいいよ”って言うのを待ってるわけでもないだろうに……)


 しかし、これはチャンスである。

 カノンも神を名乗る男だ。

 聖職者である事には違いはない。

 足を動かして、彼の体を蹴る。


「いてぇ!」


 頭に当たったのか、カノンは頭をさすりながら起きる。

 吸血鬼の視線も、第三者の存在に向けられていた。

 ダグラスは“少しだけ寿命が延びた”と思い、この間に逃げる方法を模索する。


「なんだよぉ、まだ夜じゃないか。こんな時間に起こさな、うおっ!」


 カノンも自分の頭を蹴り飛ばした相手のほうを見て、この状況に気付いたようだ。

 驚きの声をあげている。


(そうだ、あっちへいけ! 見るからに高位の神官だぞ! 見過ごせないはずだ! そうすれば、俺は逃げられる!)


 幸いな事に、すぐ近くには川がある。

“吸血鬼は流れる水を渡れない”という話を聞いた事があるので、川に飛び込めば助かるだろう。

 この状況ならば、見るからに高位の聖職者であるカノンの事を無視できないはず。

 彼が襲われているうちに、ダグラスは逃げ切る自信があった。


「うわ、エッロ! 痴女じゃん!」

「は?」

「えっ?」


 カノンは、この状況で出てくる事がありえない言葉を言い放った。

 ダグラスも、吸血鬼も、これには呆気に取られる。


「なんだよー。夜道で襲われるって、そういう意味だったのか。俺だけ先に寝かせたのも、そのためか」


(あんたが勝手に寝ただけだろう!)


 そうツッコミたいが、ダグラスにそんな余裕はない。

 なぜカノンが、そんな事を言っている余裕があるのか不思議だった。

 その表情は“やっぱりこいつは神様なんかじゃない。ただの色狂いだ”と思わせるほど、イヤらしいものだった。


「いやー、お姉さん美人だねぇ。しかもスタイルもいい。こんなところで男を漁る必要なんてないだろうに」


 カノンは立ち上がると、吸血鬼の頭の先から足の先まで舐め回すように見回す。

 すると、吸血鬼がダグラスから手を離し、両手で胸元と股間を隠した。

 吸血鬼の手から解放されたダグラスは、素早くカノンの背後に回り込む。


「名前は? 年いくつ? もしかして、外で男を襲うのが趣味だったりするの? 痴女なのに、その恥じらう姿がグッとくるねぇ」


 相手が吸血鬼だというのに、カノンは臆する事がない。

 矢継ぎ早に質問を投げかける。


「きゃぁぁぁぁぁぁ!」


 吸血鬼は悲鳴を上げて逃げ出した。

 どうやら“喉が渇いた”という飢えよりも、改めて“その格好、露出狂みたいだよ”と指摘された羞恥心が勝ったらしい。

 まったく予想できなかった事態に、ダグラスは次に何をするべきか思い浮かばず、立ち尽くして背中を見送るしかなかった。


「なんだよ、もう! 痴女襲来イベントじゃないのかよ!」


 呆然と立ち尽くしているダグラスとは対照的に、カノンは地団太踏んで悔しがっていた。

 そんな彼の後ろ姿が頼もしく見えてしまった事に、ダグラスも悔しく思う気持ちが込み上げてきた。


「カノンさん……。今のはヴァンパイアだったと思うんですけど……」

「そうなの? こっちの世界だと、ヴァンパイアってああいう格好しているものなのか?」

「鎧を着こむのは弱者の証拠ですからね。強者ほど薄着だというのが常識です。カノンさんは、怖くなかったのですか?」

「だって、あんな格好で外を歩き回ってたら痴女だと思うだろ? 『怖い』より『エロい』っていう気持ちのほうが先に立ったな」


 ダグラスは“それはお前くらいだよ!”と、ツッコミたかった。

 だが“生き残った”という実感のほうが“ツッコミたい”という気持ちを上回り、言葉を飲み込ませる。


「だとしても、よくもまぁあんな言葉が出ましたね。圧倒的強者、捕食者側の相手を怒らせたりしたらと思わなかったんですか?」

「いやー、綺麗でエロいお姉さんだなーとしか思わなかったからなぁ。ん? そういえば、ヴァンパイアに狙われていたって事は、お前……」


 カノンは、またいやらしい笑みを浮かべる。

 だが先ほどとは違い、大人が子供をからかう時のような笑みだった。

 彼はダグラスの肩を優しくポンポンと叩く。


「女の経験がないからって、女を恐れる必要はないんだぞ」

「相手がヴァンパイアだったから怖かっただけです。なんで女を恐れないといけないんですか」


 ダグラスも、まったく知識がないというわけではない。

 カノンが、何をからかおうとしているのかを理解し、真顔で返事をする。


「またまたー。ヴァンパイアだろうが、モンスターだろうが関係なく、見た目が美女でエロい格好をしてたら興奮するもんだろう? 俺のいた世界では、男はみんなそうだったぞ」

「なんなんですか、その地獄のような世界は……」


 もし、カノンのような色魔が神になれば“毎月美女を捧げ物にしろ”とか言い出しかねない雰囲気がある。

“本当にお前が神になるのかよ!”と、ダグラスは思わざるを得なかった。


 しかし、彼を否定ばかりもしていられない。

 本気で本能の赴くままに行動していたのか、相手が若い女だから計算して行動したのかまではわからない。

 だが少なくとも、今回はカノンのおかげで助かったのは事実である。

 そこは認めねばならなかった。

 気を取り直して、今やらねばならない事をやる事にする。


「またヴァンパイアが来ると危険なので、場所を移動しましょう」

「いや、それはそれでいいんじゃないか? また来たら、今度は俺が対応しよう。お前に手出しはさせないさ」


 吸血鬼から離れようとするが、その提案はカノンによって却下された。

 ただエッチな事をしたいだけだとわかっているのに、彼の姿が頼もしく見えてしまう。

 そんな自分を、ダグラスは情けなく思ってしまう。


「目が覚めたついでに、ちょっと小便してくるわ」


 ――立ちションしてくる。


 そんな言葉ですら、ダグラスには格好良く見えてきていた。

 しかし、それも束の間の事。


「うわっ」


 先ほど殺した野盗の死体にカノンがつまづいて転んだ。


「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!」


 カノンがあらぬ方向に首が曲がった死体を間近で見て、この日、二度目の甲高い悲鳴が夜空に響く。

 ダグラスは、ただの死体で驚くカノンを見て“ヴァンパイアを追い払えたのは、やっぱり偶然だよな”と冷静になる事ができた。

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