掌編#7 浅い理由と深いわけ

「おお、針が見違えるように動かしやすくなったぞ」

 第二王子殿下は晴れやかな青空に似た瞳を、ぱあっと輝かせた。針を持つ手つきはまだ危なっかしいものがあり、目を離せないが、進むスピードは先程よりも僅かに速い。


 オーキッド侯爵邸の陽だまりに満ちたサロン。母君であるオーキッド夫人を呼びに行った侯爵子息を待つ傍ら、王子殿下は手元の刺繍キットを進めているのであった。

「糸は長すぎると腕を振り回すような動作になって疲れますからねえ」

「ちょうど良い長さでないと、糸も絡まりやすくなりますし、糸が擦れたり毛羽だったりもします」

「二人とも詳しいなあ。もしかして――」

 刺繍道を極めた名人なのでは、と期待を込めた眼差しを向ける王子殿下に近衛騎士二人はからりと笑い返した。

「いえいえ。学校教育の恩恵です」

「ええ。騎士科で学びました。我々にとって、裾や袖がほつれるのも靴下に穴が空くのもよくあることなので裁縫もいわば剣術の一環なのです」

 洗濯や料理なども騎士学校では必修科目であるのだ。昔の偉人はこう言っている。日々鍛錬し、いつ来るともわからぬ機会に備えよ。そういうことである。

「へえ」

 ラグランド殿下は一瞬目を丸くしたものの、鷹揚に笑った。人の手を借りずに何かを自分でできるようになるのはよいことだ、と。

「殿下。王妃殿下や王太子妃殿下にご教授願わないのですか?」

 ラグランド王子殿下は、あの春の日以降、殿下曰く「長く険しい刺繍道」に入門された。けれども、彼が指導を請うのはエセルの刺繍店主人か、友人の母君であるオーキッド侯爵夫人であった。外に通わずとも王宮で祖母君や母君に教えていただくのが一番の上達の近道であろう。

 けれども、返事はすぐになかった。重々しくため息をついた王子殿下の美しいかんばせに暗い影が差す。美術館の彫像も裸足で逃げ出すと言われている形の良い唇が、ゆっくりと開かれた。

「……カナヅチがいきなり川の向こう岸まで泳ぎ切れると思う?」

 第二王子殿下はのたまった。王都中の苦いものを取り寄せて一気に飲み干したかのような顔つきで。

「奇跡でも起きない限り無理かと」

「無謀というよりは、危険行為ですな」

「だよねえ」

 真顔で頷き、殿下はかぶりを振った。そして、調理済みの魚の如く煌めきを失った目つきでのたまった。おばあさまや母上に弟子入りするということはそういうことなんだ、と。

「あー……、獅子は我が子を千尋の谷に落とす、というわけですな」

 身内だからこそ情も熱も特別入るものなのだろう。王妃殿下も王太子妃もたおやかな見目に反して、王子四兄弟には少々手厳しいのだ。


「いえ、殿下の場合、他人だからこそ多少甘やかしてもらえる目算があるのでしょう」


 開いていた扉からサロンに入ってきた侯爵子息が言ってのけた。母君の合流が遅れることを詫びるオーキッド侯爵子息に、殿下はやんわりと首を振った。気にするな、と。

「ニールの言うとおりだよ。使えるものはなんでも使え。叔父上もそう仰っている」

 裁縫や刺繍は淑女の嗜みであり、騎士科の必修単位ではある。オーキッド侯爵夫人も淑女教育の賜物で修めてはいるのだろう。けれど、失礼かもしれないが、王都エセル随一の刺繍名人、というほど名を馳せているわけではないように思われる。女学院などで刺繍の教師を務めていたというわけでもなさそうだ。

 分からずにもう一人の騎士と顔を見合わせていたら、オーキッド侯爵子息が困ったように眉を下げた。

「母は褒めて伸ばすタイプなんです。うちは妹もまだ小さいですし」

 オーキッド侯爵家には子息の他に令嬢がいるのだ。この兄君とは一回りほど年が離れていて、まだ幼いレディは、この陽だまりに満ちたサロンでピアノの練習をよくしているのだ。殿下の護衛でこのサロンに出入りをすることが増えたこともあり、夫人が時折ピアノの練習に付き添っている様子を見かけることもあった。客人の手前も多少はあるかもしれないが、いつだって夫人は穏やかに娘を褒め、励ましていた。

「俺は褒められて伸びるタイプだからね。母君ともあの店主とも抜群に相性が良いのだ」

 晴れ渡ったスカイブルーの瞳を細め、王子殿下が笑った。

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