掌編#8 奏で始めた序曲

 頬を撫でる夕風に一幅の涼が混ざっている。夏の終わる気配にニールはふっと肩の力を抜いた。


「明日と明後日がいっぺんに来たらいいのに」


 長椅子に座る育ちと毛並みが抜群に良い大型犬ことラグランド第二王子殿下がため息交じりに言った。

「なぞなぞですか?」

 思わず身構えるニールである。年の離れた妹に女学院のクラスで流行っているとかいう「なぞなぞ遊び」に付き合わされているのだ。連日のなぞなぞ漬けで正直なところ、おかわりはもう遠慮願いたい。

 分からないといったように、友人は首を傾げた。ゆったりと長い足を組み直す物憂げな所作もなんだか絵になってしまう王子様はもう一度深く息を吐く。


「前回から一ミリたりとも進んでないんだよ……。がっかりされる明日を思うと、それが終わったあとの明後日になってしまう方がずっといい」


 なるほど、例の淡い恋のナントカである。

 ひょんなことからニールが最前列で聴くことになってしまった友人のそれは、やっと序曲に辿り着けたようだ。ニールが積極的に質疑しているわけではないのだが、抱えているふわふわした問題を頭の中で整理する目的があるからか、友人は進捗を時折報告してくださるのだ。格好付けたがりなこの王子様は、肝心なことはだいたい隠してしまう癖がある。そのため、ニールにこの淡い恋のナントカの全容は掴めていない。けれども、アンダンテよりもずっと遅いテンポであるとはいえ、ようやく序曲に到達したのは喜ばしい。小さな歩みではあるが、巨大にして偉大な一歩であろう。

 音楽学院の課題や王子殿下ならではの公務などが重なり、目標に近づくどころか、前回の少女との「練習」から(ニールが「逢瀬」と言ったら、この友人に力いっぱい否定されたので便宜上そう表現することにした)(困った顔つきの割に耳も首も朱く染まっていたので面倒くさいことこのうえない)一ミリたりとも刺繍は進まなかったのだという。

 この三国一美しい王子様は格好付ける必要もないくらい見目麗しいのだが、妙なところで格好を付けたがるのだ。格好悪いところも全部見せてこそ始まるものも深まるものもあるように思われるが、恋愛経験のないニールがそれこそ口を出すことではないだろう。


「殿下」

「うん」

 しおしおとしていた大型犬もとい、王子様が顔を上げた。

「たぶん問題ないでしょう」

「うん?」

 きょとん、とスカイブルーの瞳が瞬いた。

 話を聞く限りでは、件のシュプリーム侯爵家ご令嬢はおとなしく、内気でとても穏やかな性分らしい。今までもラグランドが僅かに進めた刺繍を、少女はいつだってやさしく褒めてくれたのだという。だから、問題ないはずだ。きっとやさしく励ましてくれるだろう。たぶん。

「どうぞとびきりのエールですくすく存分に羽も鼻も伸ばされてきてください。おそらく問題ないはずです。思うに。きっと。たぶん」

「そこまで重複されるとかえって不安が増すんだよなあ……」

 うなだれる王子様の金髪が大きく揺れた。そのしょんぼりとした姿は、散歩直前で土砂降りに遭い、お預けを食らってしおしお沈みきった犬にやっぱり似ていた。

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