るり子、王子様に出会う 2

 黒い塊から浄水路の水がボタボタと落ちる。

 黒い泥濘のような地面がさらにどす黒くなる。

 

「だから、救急車を・・」


 1つの塊からさっきと同じ若い男の声がする。


「僕の携帯、ポケットに入れたままだったから水没しちゃいまして」


 ああ、そうだった。

 駅でガラケーをポケットにしまったことをるり子はようやく思い出す。

 ポケットから取り出したガラケーを開く。

 青白い光が発光する。

 やだ、明るい。

 るり子はガラケーを印籠のように黒い塊に向けた。

 ガラケーに照らし出されて、ずぶ濡れの若い男と妖怪みたいな老婆の姿が浮かび上がった。


 太宰を気取って心中かしら。


 るり子は少し羨ましく思う。

 命がけの恋をしてみたかった。

 夢か幻の中にそんなこともあったようななかったような。

 

「あの、ほんと、すみません。救急車を」


 るり子はようやくガラケーで救急車を呼んだ。

 救急車が来るまでの間、ずぶ濡れの若者がずぶ濡れの妖怪の介抱をした。

 るり子も負けずに頑張った。

 妖怪のジャンパーを脱がせ、落ち葉を集めて髪を拭いた。

 るり子のリュックに詰め込まれたタオルや衣類を全部出して、体にかけてやった。

 頑張るのよ、頑張るのよ、と声をかけた。

 妖怪の握りしめていた棒を見て、さっきのゴツゴツした音が杖で地面を突く音だと知った。


 救急車が来た。

 一応第一通報者のるり子が事情を聞かれた。


 鳥目のるり子は何も見ていないから、音についてだけ説明した。

 ガサガサ聞こえて、ゴツゴツ聞こえて、若い男の声が聞こえて、バシャバシャ聞こえて・・。

 救急隊員はいつのまにか若い男に質問していた。


「ワカザワコウハです。はい、若い簡単な方の沢に光る波です。こちらは僕がケアマネとして担当している宮園マツさんです。重度の認知症で、今夜も徘徊してしまったので探していました」


 ふたりは救急車に乗り込んだ。

 リアの扉を隊員が閉めようとすると、若沢がるり子に声をかけた。


「助けてくれてありがとうございます。タオルや衣類、後でお返ししますのでご連絡先を教えてください」


 るり子はガラケーの番号を覚えていない。

 どうやって見るのかもわからない。

 そしてるり子は住所がない。

 呆然と立ち尽くす。

 若沢が隊員に何か言っている。


 あの人もヤバいかも・・認知症?徘徊?放っておくのも・・。


 るり子はどこも悪くないのに、救急車に押し込められた。

 人差し指に洗濯バサミみたいな物を挟まれ、腕に黒いバンドが巻かれる。

 物凄い圧がかかって、るり子は痛い、と声を上げる。


「大丈夫ですよ」


 隣から若沢の穏やかで優しい声がした。

 子守歌でも歌わせたらピカイチかも、とるり子はうっとりと思った。

 若沢の手がるり子の手をそっと包む。


「心配いりませんよ。後で送ってあげますからね」


 送るって名古屋まで?とるり子は思った。

 せっかく家出同然(誰もない家だが)で出てきたのに。

 でも、こっちではまだ住所不定だから場所の指定もできない。

 困ったわ、とるり子は考えた。


「お名前は?」


 こんなに若いのにるり子のような女にも興味があるなんて意外だわ、とるり子は興奮した。

 

「白川るり子です」


「素敵ですね。女優さんみたいだ」


「よく言われるの」


「でしょうね」


 若沢はるり子を優しく見つめる。


「生年月日は?」


「62歳です」


「そうですか。見えませんね。で、生年月日は?」


 るり子は年をサバよんでいる。

 本当の生年月日を言うとバレるから62歳になる人の西暦を計算しようとするけれど、るり子は計算が苦手だ。

 本当は申年だけど、62歳の人は何年かしら?

 サル、とり、いぬ・・・ええと、次はええと・・・。


 若沢が救急隊員に顔を寄せて小声で話している。

 たぶん間違いないとか何とか。

 るり子は何か間違えてしまったのかと考える。

 年は間違えているのではなく、誤魔化しているのだし、それ以外に何か間違いを犯したかしら、と真剣に考える。


家出?この年で?家に誰もいないのに家出したから?


 若沢はまたるり子に向き直って極上の笑みを浮かべる。

 心配いりませんよ、と同じことを言う。

 心配って?誤魔化した年齢がバレるかどうかってこと?とるり子は思う。

 それはとても心配、とるり子はしょげる。

 名古屋で最後に勤めていたスーパーの品出しのバイトも、年を誤魔化していることがバレてクビになった。

 だって65歳まで、って言われたから仕方なく。

 るり子はまだ自分がものすごく若いつもりでいる。

 若者に負けない体力があると思っている。

 でも周りがそれを認めないのだから、誤魔化すしかないじゃない、とるり子は開き直る。


「住所はわかりますか?」


 やだ、どうしよう。

 

「いいんですよ。無理に思い出さなくて。誰だって忘れちゃうことありますよ」


 若沢はあくまでも優しい。

 責めないし怒らない。

 今まで数えきれないぐらいバイトやパートをしてきたけれど、たいがいの男はみんなるり子を責めた。

 怒った。

 罵った。


「じゃあ、今の季節はわかりますか?」


 え?

 これはクイズ?

 確か中学生のころ、暦の勉強をしたわ、とるり子は遠い昔に思いを馳せた。

 今は10月。それはもう暦の上では・・


「冬」


 若沢は少し顔を曇らせてまた救急隊員に耳打ちをする。

 間違ってるとか何とか、また言っている。

 そういえば中学生のころ、成績が悪かったから答える前から、はい間違いで〜す、といつも先生に言われていたわ、とるり子は思い出す。


「じゃあるり子さん。僕が今から3つの品物をお見せします」


「まあ何かしら。楽しみ(ワクワク)」

 

 


 

 

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