第36話

 午前中の仕事もあらかた片づき、昼食の時間が近づいて来た頃に今井がようやく会議室から解放された。扉の向こう側に向かって深々とお辞儀した彼女は、周囲から注目を浴びながら航の隣に戻ってきた。


「すみません、先輩。すぐに仕事に戻りますから」


 急いでパソコンを起動させる彼女は、どこか疲弊しているように感じられた。腕時計を見た航はデータを保存してアプリケーションを落とし、「とりあえず、昼飯にしよう」と言って席を立った。


「蕎麦で良いか?」


 今井はそんな彼の顔を見上げながら慌てて立ち上がると、鞄を手に席を離れた。


「何だか、気を遣わせちゃったみたいですね」


 申し訳なさそうにうな垂れた今井は、向かいで蕎麦を啜る航にそう言った。


「ちょうど腹が減ってたんだ」と航が答えると、思わず笑みをこぼした彼女は少しずつ麺を啜り始めた。


「先輩って、口だけは素直じゃないですよね」


「それ以外はぜんぶ単純な奴みたいに聞こえるけど」


「そういうことになっちゃいますね」と生意気な口調で返した今井は、続いて真剣な表情を浮かべ、「水橋と私が大学時代に付き合ってたのは、本当の事です」と言った。


 その件が事実であることは先日の彼女の態度から航にもおおよそ見当はついていたが、だからといって殺害容疑をかけるようなデマは洒落では済まされない。


「すぐに別れたんですけどね。同じ会社に就職しているとは思いもよらなかったです。それに、まさか犯人扱いされるなんて……」


「災難だったな」


 上手い言葉が浮かばず蕎麦を啜った航は、高倉が去り際に話していた七年前の事件のことが気がかりだったが、それについては他人が口を挟むべき問題ではないのかもしれない。


「ちょうど七年前。私が高校一年生の時に、同級生の女の子が失踪したんです」


 まるで航の心を読んだように、今井は自分からその話題を口にし始めた。


「失踪した藤咲菫さんは私の中学からの友人でした。息を呑むほどの美人で、彼女に憧れた私はいつもそばを追いかけまわしていました」


 彼女は温かいお茶を口に含むと、ゆっくり息を吐き出した。


「失踪する少し前に、同じ学校で生徒が亡くなったんです。警察は周辺の聞き込みや菫さんが行方をくらました時期から容疑者の一人として行方を捜索し始めましたが、彼女は結局見つからずじまいでした。


 亡くなった学生の現場検証からも他殺の証拠が見つからなかったことから最後には自殺と断定されました」


「それって、まさに……」


 水橋嶺二の件と同じじゃないか。


 そう言いかけた航だったが、証拠不十分で自殺と断定される事件などこの世には山ほど存在していると聞く。一概に関連付けて良いものかどうか。


「七年前の失踪事件と今回の事件には、どちらも私と関係のある人物が被害に遭っています。だからあの人は私に直接話を聞きに来たみたいです」


「被害? 七年前の件に関しては菫って子は被害者じゃなく容疑者だろ?」


 航がそう言うと、今井は気まずそうに目を逸らした。


「あの人はきっと七年前の私たちの関係について調べたんだと思います。菫さんに対して私がどんなことをしてきたのか、色々……」


 俯いた彼女を見ながら腕組みをした航は、一向に話が見えて来なかった。友人が失踪してむしろ心に傷を負ったのは彼女自身ではないのか。


「私はあの頃、菫さんにひどい嫌がらせをしていました」


「嫌がらせ?」


「はい。たぶん先輩はその内容を聞けば私の正気を疑うと思います」


 彼女は寒気を覚えたように両腕で身体を抱き始めた。「菫さんは失踪したんじゃなく、実は私が殺したんじゃないかってあの人は言ってきました。亡くなった生徒についても……」


「そんなの言いがかりだろ!」と航は声を荒げたが、彼女は静かに頷きながら「そう言われても当然のことを、当時の私はあの子にしてきたんです」と言った。


「過去の事件と同じ手口で、水橋のことも私が殺したんだとあの人は疑っている。けど、私は何もやってないんです!」


「警察の捜査でも、水橋は自殺だと断定されているはずだ」


 前かがみになった航は俯いた彼女の肩に触れ、「ゴシップが欲しくて適当なことを言ってるだけさ」と慰めるように言った。


「今井が心配するようなことは何もないよ」


「先輩……」


 航の手に自らの手を重ね合わせた彼女は、そっと顔を上げて彼を見つめ始めた。


「先輩は私の話、……信じてくれますか?」


 彼女の瞳はどこか、魔性のものを思わせた。弱り果てたその表情は普段の何倍も可憐で色気を帯びている。


 思わず抱き寄せてしまいそうになるほど魅力的なその存在は一見して美しいガラス細工のように思われたが、彼の本能はその奥に蜘蛛の巣のような罠を垣間見た。


「あぁ。信じるよ」


 呟くように答えた航は、ようやく彼女から目を逸らすことができた。引き寄せられるような存在感に圧倒されたのか、心臓が高鳴っている。


「嬉しい……」


 航の手を両手で握りしめた彼女はそれをじっと見つめ、「私、時々夢を見るんです」と言った。


「あの頃の姿のままの菫さんが現れて、私に仕返しにやって来る夢」


 彼女はなぜか口元に笑みを浮かべていた。自分が報復に遭っている光景を語っているにも関わらず、まるでそれを望んでいるかのように。


「菫さんはもしかしたら、今もどこかで身を潜めながら私に復讐する機会をうかがっているのかもしれません」


 彼女の笑みは未だ崩れない。さすがに不気味に思った航が「そんなことはないさ」と答えると、顔を上げた今井は愉快そうに「だから、私の恋人だった水橋を殺したんです」と言った。


「次はそろそろ私かも。ほら、今も先輩の後ろに」


「悪乗りも大概にしろよ」


 航が窘めるように言うと、「冗談ですよ」と答えて彼女は肩を落とした。


「……でも、もしそうなったら先輩は私のことを助けてくれますか?」


 またもや不意に訪れた、彼女の妖しい視線。航はざわついた気持ちを胸に抱きながら「気が向いたらな」と答えて目を逸らした。


 それを聞いて満足したように頷いた彼女は、手を離して鞄から手帳を取り出すと一枚の写真を抜き取って見せた。


「これが藤咲菫さんです。ね? 綺麗な人でしょ。もしもこんなに美しい人が目の前に現れても、ちゃんと私のことを守ってくださいよ?」


 ため息を漏らしながら写真を覗き込んだ航は、藤咲という少女の類まれな美しさに驚かされたが、それよりも興味を引かれたのは隣を歩くもう一人の存在だった。


「へぇ。確かに綺麗な子だ」


 多少興味を持ったように答えた彼は、「それで、この隣の子は?」と続けて本題の質問を投げかけた。


「えー。もう浮気ですかぁ?」と冗談めかして答えた彼女は、藤咲菫と同じ制服姿をした女の子を指さし、「この人は菫さんのお友達で、沢渡碧さんです」と答えた。


「学年が一つ上だったので私はよく知りませんけど、菫さんとは相当仲が良かったみたいですよ」


 沢渡碧……。確かに彼女は、先日夢で出会った際に菫という少女と友達になったと話していたが。


「仲の良かった友達が失踪したんじゃ、さぞかし悲しんでただろ」


 彼女は今まさに高校生ではないのか? 夢で話したあの姿が七年前のものだとすると、現在の姿は一体どうなっているのか。会話の流れでどうにか今井から聞き出そうと航は考えていたが、その直後に彼は予期せぬ言葉を聞かされた。


「確かに菫さんの失踪を知ったらさぞかし悲しんだでしょうけど、沢渡さんは菫さんが失踪する少し前に、……亡くなっています」


「何だって!?」


 思わず声を上げた航は、一度咳払いをして動揺を隠そうとした。今回に限っては今井が冗談を言っているようには思えない。


「七年前の事件というのは、この沢渡って子の殺害容疑が藤咲菫に?」


 改めて写真を眺めた航は、二人の女子高生が並んで歩く姿を観察した。藤咲菫に向かって話しかける彼女は、幸せそうな笑顔を浮かべている。


 航が顔を上げて今井を見遣ると、彼の問いかけに対して彼女は首を縦に振った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る