碧 6月17日

第37話

 菫が学校を休み始めてから、二人は彼女の話題を避けている。以前と同じ昼食風景のはずが、碧にとってそこはすでに別物だった。


 菫の暴走は夢と現実を混同したせいだと説明してやりたかったが、彼らに話しても意味がないことは分かっていた。


 昔も信じて貰えなかったんだから……。


「ちょっと前に中間試験だったのに、来月にはもう期末試験って信じらんない」


「けど、それが終われば夏休みだろ」


 不機嫌そうに話す亜美を見ながら紙パックのジュースを飲んだ朝陽は、彼女のお弁当のおかずをつまみ食いした。


「あっ! よりにもよって唐揚げを取ったね、あんたは!」


 今度は亜美が彼のおにぎりに齧りつき、「昆布か。どうせなら鮭が良かったな」と口いっぱいに頬張りながらぼやいた。


「食いながら喋んなよ。中身出るぞ」


「出さないわよ」


「勿体ないからか?」


「違うし!」


 二人の変わらぬ遣り取りを眺めていると、碧はまるで菫がここにいた痕跡が消えてしまうような気がしてならなかった。ほんの少し前までは四人で楽しく過ごしていたのに、喪失感を覚えているのは自分だけなのだろうか。


「――そんじゃ、またね」


 昼食を終え、亜美が教室に去るのを見送った碧は扉の方を向いたが、背後から朝陽に呼び止められた。二人きりの時はさほど話しかけて来ない彼にしては珍しいことだった。


「ちょっと良いか?」


 手招きしながら廊下の窓際に移動した彼に従い、隣に立った碧は表に見える中庭を見下ろした。ちょうど真下に見えるベンチに彼女が視線を遣った時、朝陽はそこを指さした。


「昨日の昼にあそこで菫が一人飯食ってるところを見たんだ」


「えっ」


 碧は素早く隣の彼に視線を遣り、「菫ちゃん学校に来てるの?」


「やっぱり、碧にも連絡してないんだな」


 窓枠に凭れた朝陽は教室の方を向きながら「あいつがまた一人になっちまったのは、俺のせいだよな」と弱ったように言った。


「でも今俺が行くとややこしくなりそうだし、亜美もあの日から怒ったまんまだしな」


 確かに朝陽が会いに行けば、彼に好意を抱く菫はまた誤解をしかねない。その想いは夢の中でさらに誇張され、現実の彼と愛を交わしたという話にすり替えてしまうことだろう。


「そうだね。放課後にでも私が会いに行ってみるよ」


 碧の返答に苦笑いを浮かべた朝陽は「おう、頼むわ」と言うと、どこか申し訳なさそうに頭を掻いた。


 あなたのせいじゃないよ、と声をかけてやりたかった碧だったが、そこへちょうど次の授業の担当教員が現れたので二人は教室に入った。


 放課後に碧が一年の教室を覗きに行くと、菫の姿はすでになかった。残っていた数人の生徒たちは彼女の名前を耳にしただけで強張った表情を浮かべている。同学年で孤立しているという噂はやはり本当のようだ。


「あの、すみません」


 諦めて碧が廊下を歩き始めた時、一人の女子生徒が後を追いかけてきた。


「菫さんをお探しですか?」


「うん。そうだけど」


「あの子はいつも一人でいるし、心配ですよね」


 彼女の顔を見た碧は、その表情にどこか嘘くさいものを感じとった。“心配”という言葉を用いておきながら、なぜ口元に笑みを浮かべているのか。


「それじゃ、私は……」


 碧が再び歩きだすと、彼女は斜め後ろに並行して続き、「菫さんが帰ったのはついさっきなので、今なら追いつけるかもしれませんよ」と言った。


「通学路の途中の河川敷でよく道草しているので、ひょっとしたらそこにいるかも」


 喜々として話す彼女を見遣った碧は、立ち止まって向き直った。


「詳しいんだね。仲良いの?」


 そんなはずがない。彼女はきっと物珍しいものに興味があるだけだ。


「えっと、仲が良いというか。ほとんど口を聞いたこともないんですけど」と言って目を逸らした彼女は、窓の外に浮かぶ雲を眺めながら「菫さんは、私の憧れなので」と答えて含み笑いをした。


 憧れ……。


 彼女の笑みがどこか不愉快に思えた碧は、再び歩き出した。


「教えてくれてありがとう」


「途中までご一緒しましょうか? 時々分かりにくいところにいるので。この間なんて、背の高い茂みの中に寝そべってたんですよ」


 彼女は階段を降り始めた碧の後を再びついて回り、「菫さんとは普段どんなお話をされるんですか? お昼も一緒に食べるんですよね? 仲良くなったきっかけは何ですか?」と早口に言った。


「菫さんのお友達なら、私もぜひお話をしてみたいと思っていましたし」


「…………」


 この子は一体、何なのだろうか。


 友人と言うには関係性が希薄で、それでいて彼女について異常に関心がある。先ほど口にしていた憧れという台詞から、『ストーカー』という言葉が碧の頭にふと浮かんだ。


「良かったら、菫さんを探すの手伝いますよ」


 野次馬根性で同行されても、今の菫にとっては好ましくない。


「ありがとう。でもやっぱり、私は一人でも平気だから」と碧は答えた。


 すると目の前の女生徒は突然殺気を帯びた目つきで彼女を睨みつけ、「私がいると迷惑ってことでしょうか」と言った。


「そういうわけでは……」


「では、どういう意味でしょう?」


 彼女の威圧的な姿勢に碧が弱った表情を浮かべていると、そこへ「お、碧」と下駄箱の方から声をかける者があった。

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