第38話

 碧が振り向くと、練習着姿の朝陽が校舎に入ってくるのが見えた。彼は声を抑えながら「菫とは話できたか?」


「ううん。先に帰っちゃったみたいだから、これから探しに行くとこ。最近はよく河川敷に行ってるみたい」


「河川敷? それ、誰に聞いたんだ?」


「この子がよくそこにいるって話してくれたから」と答えた碧は背後を見遣ったが、先ほどの彼女の姿はすでになかった。


 碧が河川敷に到着すると、聞いていた通りに坂の芝に腰かけた菫は一人で川を眺めていた。


「菫ちゃん」


 碧が声をかけると、静かに振り返った菫は寝ぼけ眼で彼女を見上げていたが、やがて口元に笑みを浮かべながら隣の芝を軽く叩いた。


 碧がそこに腰かけると、彼女は目を閉じて大きく息を吸い込み、「この場所、風が気持ちよくて好きなの」と言った。


「前もここに座って二人で話をしたよね」


 碧の言葉を聞いた彼女は、両手を上げて伸びをした。「そうね」


 心地よさそうな表情を浮かべる彼女の横顔を眺めた碧は、思いのほか元気そうで良かったと思った。


「もう、大丈夫?」


「平気よ。だってこんなに太陽が気持ちいいんだもの」


 顔の前に手を翳して太陽を見上げた菫は、次いで碧に顔を寄せる。うっとりするほど澄んだ目つきで瞳を覗き込まれた碧が身体を硬直させていると、手を重ねた彼女は指を絡め始めた。


「私のこと心配してくれたのね」


 指先で手のひらをなでられた碧は、ちょっぴり敏感な部分を刺激されたような気恥ずかしい思いがしたものの、不思議と気分は悪くなかった。


 むしろ以前よりもどこか積極的で艶かしい雰囲気を帯びた彼女の魅力に惹き込まれると、取り返しのつかないところまで堕ちていくような感覚に支配されそうだった。


 碧の膝の上で横になった菫は、今度は太ももをなで始めた。


「私、まるで生まれ変わった気分。何かに守られているような不思議な感覚なの。お肌の調子だって近頃はとっても良いのよ」


 彼女は長い髪を掻き分け、首筋の辺りを見せた。太陽光に反射する色白の肌は透き通るような輝きを放ち、潤いに満ちている。


「綺麗だね」


 艶かしい肌にはほどよい瑞々しさと弾力があり、碧が触れると彼女はくすぐったそうに身体をくねらせた。


「髪も、とっても綺麗……」


 頭部から漂う匂いは思わず病みつきになりそうなほどに甘く、鼻孔を刺激された。取り憑かれたように髪をなでつける碧は、しばらくしてその中に白く光る髪を発見した。


「あ、白髪」


 反射的に碧がそれを引き抜くと、予想外に悲痛な声を上げた菫は「痛いじゃないの!」と激しく怒鳴りつけた。


「私を傷ものにするつもり!?」


「あ、ごめん。うちの実家では白髪を見たら抜く習慣になってるから、つい菫ちゃんのも抜いちゃった。……痛かった?」


「ううん。平気よ。少しびっくりしただけ」


 すぐに穏やかな声音に戻った菫だったが、彼女は川辺の方をずっと向いたままだった。


「菫ちゃんにも白髪とかあるんだね」


 引き抜いた白髪を眺めた碧は、毛根の部分を見て思わず目を見開いた。通常なら丸いふくらみがある程度のはずが、彼女の毛根にはいくつもの枝分かれが見られている。


 その光景はまるで球根の水栽培を思わせた。根と根は複雑にねじれ合い、指先に絡まった糸状のそれらは今にも動き出しそうに思えた。


「うわっ!」と短く声を上げた碧がそれを地面に投げ捨てると、今まで川辺を向いていたはずの菫はいつの間にか彼女の顔を見上げている。


「ねぇ、私があげたお花は元気?」


 虚ろな目つきでそう尋ねた菫は、ゆっくりと上体を起こした。


「きちんと水をやってね」


「う、うん」


 正直なところ、碧が夢の中で自宅の庭を見る機会はほとんどなかった。未だ冬が続く自身の世界で、あの赤い花は雪に埋もれているのではないだろうか。


 そんな不安を抱きつつ碧が先ほど投げ捨てた白髪にふと目を遣ると、茶色く変色したそれは干からびたミミズのようにうねっていた。

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