慎二 6月12日

第39話

「どうだい、近頃は? 怖い夢は見ないかな?」


 菫が学校を休んでいた頃、診療所から帰宅した慎二は夜な夜な彼女の寝室を訪れてメンタルケアを行っていた。


 たとえ話を聞かずとも、娘が失恋をしたのだということは初日の泣き腫らした顔から容易に想像がついたが、モニタリングを欠かすわけにはいかなかった。


「怖い夢? パパったら、そんなもの見るはずないじゃない」


 穏やかな表情を浮かべて話す菫は、最近見た夢の内容を語ってくれた。


「とっても綺麗な青い花が咲いたのよ。品種改良を何度も重ねて、開花させるのに苦労したわ。今ではテラスだけじゃなく、お屋敷の外にも庭園を造っているの。お花に囲まれて昼寝をするのが最高に気持ち良いんだから」


「菫はお花が大好きなんだね」


 にこやかに返した慎二は、あの日を境にした彼女の変化に驚かされた。


 ――あの日。


 突然学校へ行かないと言い張ってから数日が経った頃、菫は部屋に篭って泣き続けていた。片思いの相手に恋人がいたのか、はたまた他に想い人がいたのかまでは不明だが、自分は選ばれなかったのだと話してくれた。


 精神的なショックから退行現象を起こした彼女は、亡き母親の虚像にしがみつくことで心の平穏を保とうとしているようだった。メンタルケアを受ける際にはお守りを握りしめ、時おりそれを見ながら独り言を呟いていた。


 やはりあの赤い石には精神を安定化させる作用があるのか、眠る時も彼女は常に枕元にそれを置いていた。試しに机の上に移動させると、目を覚ました際に大声で泣き叫んだ。


 彼女にとって赤い石は母親の代わりなのだ。姿が見えなくなった途端に不安が襲い、頭の中がパニックになる。


 慎二は数日間であらゆるデータを取った。中でも興味深かったのは赤い石を袋から取り出しておくと、菫はそれを口に含もうとすることだった。


 数回試してどれも同じ結果が得られたので、間違いはないだろう。近くで監視していたおかげで間一髪防ぐことができたが、やはり妻があの日舐めていた赤い飴玉は飴ではなかったのだと彼は確信に至った。


 赤い石と電磁波は互いに惹かれ合う? 体内の電磁波が赤い石を欲しているのかもしれない。


「赤い石は電磁波に対する中和抗体だ。やはりその方向性で間違いない。脳内に移植し、効力をより高める必要がある」


 慎二の唱えた説にようやく耳を傾けるようになった紺野はいつもの喫茶店で向かい合いながら話を聞いていたが、彼の試みを聞いて二の足を踏んだ。


「だが、あまりに危険すぎやしないか?」


「どのみちあれが胃袋に滞在していても、効果は最大値に満たないんだ」


 妻の死を経験した慎二にとって、娘の死がすぐそばまで迫っていることは脅威だった。何としても彼女を救わなければと彼は焦っていた。


「俺はもう少し様子を見た方がいいと思う」


「あぁ。様子ね。見ようじゃないか、いつまでもね」


 冷ややかな口調で応えた慎二は、これ見よがしに舌打ちをした。奴め! どこまで様子を見ようっていうんだ。お前さんの論文にとって有利な結果が得られるまでか? それとも新種のコカインが完成するまでか? 娘の死がすぐそこまで迫っているんだぞ! 他人事のお前に何が分かるって言うんだ!


「そんなに長いスパンの話をしている訳じゃないよ。きっと何か兆候が現れるはずなんだ。お前の案はその時になってから試してみても遅くはない」


 ほう。随分と分かったような口を聞くじゃないか。遅くはないと言い切れるほど、お前さんはあれについて理解しているのか?


 慎二が無言で険しい表情を浮かべていると、紺野は深いため息を漏らした。


「藤咲よ。お前は焦り過ぎだ。そんなに心配しなくても、菫ちゃんの体調は今のところ普段と変わらないんだろ?」


「四日も部屋に籠りきりなのが順調と言えるのか!」


 強い口調で返した慎二は、すぐさま顔を覆いながら机に突っ伏した。


「……すまん。当たるつもりはなかったんだ」


「気にするな。お前も疲れているんだよ」


 紺野は伝票を手に席を立った。


「また明日にでも話し合おう。お前も今日は早く寝ろよ。藤咲が倒れたら、それこそ誰が菫ちゃんを世話するって言うんだ」


「あぁ。分かってる」


 紺野を見送った慎二は、自宅に帰って早いところ眠ってしまおうと思った。部屋にはウイスキーがまだ残っている。あれを引っかけてベッドに倒れ込めば、翌朝まで目が覚めることもないだろう。


 だが自宅の前に慎二が到着すると、部屋のどこにも灯りがついていなかった。不思議に思った彼が娘の寝室に向かうと、彼女はベッドの上で悶え苦しんでいた。


 声をかけても反応がなく、身体を押さえつけて眼球の動きを確認したところ、彼女は睡眠状態にあるようだった。


「夢に魘されているだと? それにしてはあまりに……」


 彼女はベッドの中で身体を反らせながら呼吸を荒げ、首の辺りを掴んでいた。まるで悪魔が乗り移ったように奇怪な動きを見せ、誰かと問答を繰り広げているようだった。


 とうとうその時がやって来たんだ、そうに違いない!


 すぐさま紺野に連絡をした慎二は、娘の容態を伝えた。彼の方も一大事だと認識したのかすぐに飛んできた。


「直ちにすべきだ! それしか方法はない!」


「だが、それで助かるという確証は……」


 二人はベッドに横たわる菫の前で言い争っていた。慎二の表情はおよそ狂気とも呼べるものだったが、紺野としても今の彼女が異常な状態にあることは理解していた。


 現在は麻酔が効いて大人しくしているが、先ほどまではベッドの上で跳ね回り、甲高い悲鳴を上げていた。


 一刻も早くどうにかしなければ、麻酔が切れる頃には再び暴れ回る可能性が高い。最悪の場合は意識が戻らないことも……。


「やはり手術だ! 今は一分一秒を争う!」


「だが、そんな大掛かりなことを一体誰に頼むつもりだ?」


 紺野の質問に対して口元に不敵な笑みを浮かべた慎二は、ポケットから携帯電話を取り出した。


「八十島がいる。あいつには大きな貸しもあるしな。失敗なんてさせやしないさ」


「奴は起きているだろうか?」


「もちろん起きてるさ。いつもこの時間になると懺悔の電話を寄こしやがるんだから」


 突然の呼び出しにも関わらず、八十島はすぐに慎二のもとに駆けつけた。手術の内容を聞いた彼は血の気の引いた表情を浮かべたが、慎二に迫られてやむを得ず引き受けた。


「藤咲。もしこの手術が成功したら、俺たちの問題はチャラだ。それでいいな?」


「成功したらじゃない、させるんだ!」


 八十島は自身の経営する病院の手術室に菫を運び込むと、秘密裏に手術を施した。


「――ねぇ、パパ。パパったら」


「おっと。なんだい菫」


 考え事に夢中になっていた慎二が顔を上げると、不機嫌そうに彼を見つめる菫の顔があった。


「だから、私はお花の世話をするためにもう寝たいのよ」


 そう言って勝手にベッドに横たわった菫は、かけ布団を被って目を閉じた。


「仕方のない子だな。続きは明日にしようか」


 娘の部屋の電気を消した慎二は、自室に戻って問診内容を記入していった。今のところは妻と同様に穏やかな精神状態が続いている。このまま電磁波の影響が弱まってくれればいいのだが……。


 携帯電話を耳に当てた慎二は、机の中からウイスキーの瓶を取り出した。


「紺野か? 俺だ。明日の件だがな」


 濃紺の闇夜を眺めながら、彼は酒を煽った。そうでもしない限り、これから先もぐっすりと眠れる日は訪れそうになかった。

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