菫 6月21日

第40話

 復学後まもなくして、菫の内面には変化が起き始めていた。見るもの全てが色鮮やかに感じられ、心穏やかな気分だった。


 昼食時には導かれるように中庭に向かい、自然と戯れながら過ごす時間が愛おしく思えた。中庭に咲く花々は彼女を歓迎し、ベンチに腰かけた菫は太陽光をいっぱい浴びて過ごした。


「あなたたちが羨ましいわ。私も綺麗なお花になって、気ままに揺られていられたら」


 放課後は河原の土手で寝そべっていたが、芝の感触があまりに気持ち良くてついうたた寝をしてしまった。


 気づけばお屋敷のベッドに横たわっていた彼女は、壁際から発せられる異様な気配に鳥肌が立った。


 そこにはやはり、あの黒い扉があった。


 近くに寄って眺めると、扉の周囲には無数の根が張り巡らされている。それらはまるで糸で縫いつけられたように扉を塞いでいた。


「あ、お花が……」


 根から生えた無数の蔦の間には、所々に菫色の花が咲いていた。花びらの縁からは蜜が垂れ、匂いに引き寄せられた彼女はそれに指先で触れると味を確かめるようにひと舐めした。


「……なんて甘いのかしら」


 もう一度蜜をすくって舐めた菫は、我慢ができなくて直接花びらに口をつけ始めた。木の根にへばりつくように身を屈め、花々を巡って順に蜜を吸い尽くしていく。


 ひとしきり蜜を吸い終わった彼女は、木の根を枕代わりにして横になった。


「何て満たされた気分なの」


 黒い扉に対する恐怖心は微塵も感じなかった。大好きなお花たちが彼女の心を包み込み、守ってくれる。


 気づくとそこは河原の土手だった。遠くから、彼女を呼ぶ碧の声が聞こえていた。


「――菫。起きてるのか? 今日は午後からお客さんが来るからね」


 休日の朝、菫が自室に篭っていると扉の向こうから父親の声が響き、続いて階段を降りていく足音が聞こえた。そろそろ昼食の準備に取りかかるのだろう。


 母親の悪夢から覚めたあの日以来、菫はすっかり怠惰な生活を送っていた。家事に対する意欲は失せ、代わりに植物に対する水やりに執着するようになった。


 ほとんどの時間を部屋のベッドで過ごし、時おりベランダのウッドデッキに出て太陽の光を浴びた。父親からはなるべく身体を動かすように言われているが、やりたくないものはやりたくないのだ。


(もっと、黙っていればいいのに)


「そうよね。あの人はいつだって口うるさいのよ」


 父親の用意した脂っこい料理を食し、菫が自室で寛いでいるとしばらくして呼び鈴が鳴った。部屋を出て階下を眺めると、父親が玄関に向かう姿が見えた。


 挨拶を交わして客人を(どうやら二人いるようだ)リビングに通した彼は、珍しく扉を閉めた。なによ、私だけ蚊帳の外に置いてあんたはお楽しみってわけ?


 ふてくされて寝室に戻った菫はベッドに寝転びながら窓の外を眺めていたが、雲間から太陽が覗いた瞬間にふと喉の渇きを覚え、キッチンから飲み物を取ってこようと考えた。


 けれどリビングに通じる扉は閉め切られているし、入っても良いのだろうか。


「……ふん。ここは私のお家でもあるんだから」


 階段の上から眺めると、未だリビングの扉は閉め切られていた。そろそろ植物にも水をやらねばならないし、そのためにはキッチンで水を汲まなければならない。とはいえ、父親に怒られるのが怖くて彼女はなかなか足を踏み出せなかった。


 菫が恐る恐る階段を下っていくと、半ばまで降りたところでリビングの扉が開いた。彼女はすぐさま上の階に引き返そうかと思ったが、視界に入った人物は父親ではなかった。


 すらりとした長身の男はグレーのスーツを着ていた。短めの髪は櫛で整えられ、わずかに光沢を帯びている。


 菫が挨拶をすると、彼女を見上げながら扉をゆっくりと閉めた男は「やぁ、菫ちゃん」と笑みを浮かべた。


「改めて見ると、やっぱり百合子さんにそっくりだな」


 彼女が黙ったまま首を傾げていると、男は手を叩きながら「そうか。会って話すのは久しぶりだったね」と言った。


「僕は君のお父さんとお母さんの同級生で、こんなに小さな頃の君を見たこともあるんだよ」


「あっ」と声を漏らしてから口元を手で覆い隠した菫は、母親の葬儀で彼を見たことを思い出した。


 その日は小雨が降っており、昼間でもどんよりと薄暗かった。母親を失ったショックに耐えきれず外の空気を吸いに出た彼女は、葬儀場の敷地内で佇む一人の男を見た。


 喪服姿で黒い傘をさした彼は時おり葬儀場を見上げるものの、中に入ろうとしない。憂いを帯びたその表情は、どこか印象に残っていた。


「お母さんにそっくりで綺麗な子になったね」


 胸元から名刺を取り出した彼は、それを菫に手渡した。視線を遣るとそこには彼の名前が記載されている。


 八十島……。


「僕は市内に病院を構えていてね、整形外科医として働いているんだ」


 笑顔を浮かべたまま彼女に顔を寄せる八十島は、「良かったら今度遊びにおいでよ。ご飯でも奢るからさ」と声を潜めて言った。


 そこで再びリビングの扉が開くと、険しい顔つきをした慎二が現れた。


「八十島、いつまで待たせるんだ」


「おう、すぐ戻るよ」と彼は軽い口調で答えたが、二人が並んで立っているところを目撃した慎二は娘の前に移動し、「お前は部屋にいなさい」と言った。


「でもパパ。私、飲み物をとりに来たのよ。そろそろお花に水もやらなきゃだし」


「飲み物ならパパが部屋まで運んであげるから、とにかく今は部屋に戻っていなさい」


「でも……」


 彼女が俯いて黙り込むと、「良いじゃないか。菫ちゃんの好きにさせてやれよ」と言って八十島がリビングの扉を開いた。


「さぁ、どうぞ」


「おい、八十島!」


 背後から怒鳴る父親の声を耳にしながら、背中を押されて菫はリビングに入った。テーブルの上には細々とした文字の羅列やイラストの記載されたコピー用紙が束になって置かれ、それを紺野が睨みつけている。


「お邪魔してごめんなさい。ちょっと喉が渇いて……」


 彼女の声に顔を上げた紺野は慌てて書類の束を覆い隠したが、菫はそれには目もくれずキッチンに向かって冷蔵庫を開いた。


「おい紺野、お前も何か飲むかい?」


 菫の後を追って冷蔵庫の前に立った八十島は、彼女を手伝ってコップを出しながら「僕も貰っていいかな?」と言った。


 彼が動き回ると、お花みたいな匂いがした。それは菫にとって好ましい香りであり、他の大人たちと違って親しみやすい八十島に彼女はすぐさま好感を持った。


 グラスにお茶を注いだ菫は両手でコップを持ちながら窓を開いて庭に出ると、今度はジョウロを手にキッチンを往復した。


 父親は未だ険しい顔つきをしていたので、やはり来てはいけなかったのだと思った菫はひとしきり準備が整うと外側から窓を閉めた。

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