第41話
花に水をやり始めた菫は、お気に入りの花の前に立って独り言を呟き始めた。
「あの人はママのお葬式で見たわ。もう一人もどこかで見覚えがあるはずだけど」
菫が話しかけると、花は左右に揺れながらそれに応えた。
「でも、少し歳が離れすぎているとは思わない? それよりも私は朝陽さんが……」
(あの女が邪魔をしている!)
「違うよ! 邪魔者は私の方。……やっぱり、諦めたほうがいいのかな」
菫の答えを聞いた花は、再び左右に揺れ始めた。その拍子に花びらが捲れると、茎の辺りに赤いふくらみが見られた。
水分を薄い膜で覆ったそれは、軽く掴んだだけで破裂してしまいそうなほどに脆いものだった。
「これは、一体何かしら」
菫がふくらみを見つめていると、突然花々がざわめき始めた。何やら不吉な予感を覚えて玄関の方を振り返ると、そこには莉緒菜が立っていた。
「ごきげんよう、菫さん」
黒で統一された私服姿の彼女は、笑みを浮かべて庭に立つ菫を見つめている。
「近くを通りかかったものだから、ちょっと寄ってみたの」
庭に足を進める莉緒菜に向かって菫が殺気立った視線を送ると、彼女は一瞬だけ怯んだ表情を浮かべた。
「あら、入っては駄目なのかしら」
菫が何も答えずにいると、諦めたようにため息をついた莉緒菜は「分かったわ。これ以上は近づかないから」と言って肩を竦めた。
「ところであなた、そこに立ったまま一人で何を呟いていたの?」
「私は何も言ってないわ」
「言ってたわよ。誰かと電話しているのかと思ったけれど、手にはそれを持っているだけだし」
莉緒菜は彼女が手にしたジョウロを指さし、「まさか高校生にもなって、お花に話しかけていたなんて言わないわよね」と笑った。
「だったら、何?」
「まぁ、本当にそうなの!?」
つい先ほど入って来ないと約束したばかりの彼女は汚い足で庭を踏み荒らすと、菫の隣に立ってお気に入りの花を眺めた。
「珍しいお花ね。レンゲショウマにも似ているけれど、こんなに大きなものは見たことがないわ」
興味津々に花を眺める莉緒菜は、引き寄せられるようにじりじりと前に足を進めていく。
「何て、美しいのかしら……」
「やめてよ、嫌がってるじゃない!」
菫は慌てて彼女の腕を掴んだが、すっかり花に魅入られた莉緒菜は「これ、私にちょうだいよ」と言って手を伸ばし始めた。
「ダメよ、それだけは絶対にダメ! 私のお友達に手を出さないで!」
「ふうん、お友達ね。それなら、なおさら私が貰わなくっちゃ! あなたのお友達は私一人で十分なんだもの!」
「駄目って言ってるでしょ!」
菫が力を込めると、その勢いで態勢を崩した莉緒菜は地面に尻もちをついた。
「痛ったいわね!」
咎めるような視線を投げつけた彼女は、座ったまま片手を伸ばして引っ張り起こすように促している。
「早く起こしなさいよ」
「…………」
いつからこれほど高飛車な態度を取るようになったのか。
校内で菫を襲って以降、しばらくして再び登校した彼女の頬には痣が見られた。親にぶたれたのか、それとも他に理由があるのか。それを尋ねるクラスメイトは誰一人としていなかった。
菫に対する彼女の暴力事件はあっという間に噂が広まり、戻ってきた莉緒菜はクラスメイトから白い目で見られていた。個人行動を余儀なくされた彼女は徐々に気持ちが荒み、鬱憤が溜まっている様子だったが、その埋め合わせをまたもや自分に押しつけようというのか。
「何してるの! さぁ、早く!」
誰が、あんたなんか……!
菫が拳を握りしめると、尻もちをついた彼女の周辺に生えた雑草が揺らめき、彼女の身体を這いずり始めた。うねうねと伸びたそれらは手のひらや太腿の辺りに巻きつき、肉を引き裂こうと締めつけている。
「ぎゃっ! なによこれ! なによこれ!」
慌てて立ちあがろうとした莉緒菜は巻きついた雑草に引っ張られて再び尻もちをつき、焦ってそれらを引きちぎったせいか指先から血が滴っていた。
泣きながら玄関のそばにあるコンクリートの通路まで逃げ出した彼女は、手を押さえながら怯えた顔つきで菫を睨みつけた。
「……この化け物」
捨て台詞を残して彼女がその場から立ち去ると、菫は歓喜に沸く庭の雑草たちと共に勝利の舞いを踊り出したい気分だったが、そこでベランダの窓が開いて中から父親が顔を出した。
「菫? 何だか騒がしいけど、何をしてるんだい?」
「ううん。少し身体を動かしていただけよ。ふふっ」
彼が去った後に菫が再び庭の雑草たちを眺めると、それは別段変わった様子もなく伸びた跡も見られなかった。
ただ一つ、莉緒菜が無理やりに引きちぎった箇所だけは生々しい赤い血が付着していた。
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