第三部
航 6月21日
第35話
仕事終わりの航が駅を目指していると、一足先に退勤したはずの今井の姿を見かけた。何やら見知らぬ男と口論しており、彼女がその場から立ち去ろうとすると男は腕を掴みながらしつこく言い寄っている。
航はすぐさま助けに入ろうとしたが、先日彼女から言われた言葉をふと思い出し、しばらく動向を観察することにした。ひょっとしたら二人は恋人関係にあり、これから仲直りをするところなのかもしれない。もしも相手の男が危害を加えようとしたら、その時は飛び出せばいいだろう。
航が二人のやり取りを眺めていると、男は言い合いの中で不吉な台詞を口走った。
「水橋嶺二殺害事件について、あなたは何か隠してるんでしょ?」
水橋嶺二……。
あの事件について嗅ぎまわっている連中がまだいたとは。どうやら彼女に絡んでいるのは単なるジャーナリストのようだ。恋人という線は限りなくゼロに近い。
「おーい、今井!」
ならばこれ以上引き延ばす必要もないと、航は彼女に声をかけた。
彼の存在に気づいた今井は、どこか見られてはならないところを目撃されたような後ろめたい表情を浮かべたが、「葉瀬川先輩。助けてください!」と言ってすぐに駆け寄ってきた。
航の後ろに身を隠した今井は僅かに顔を出し、「この人変質者です!」と言った。
「あぁ、そうなのか?」
二人を観察していた航としてはどう反応して良いか弱ったものだが、彼女のそんなごまかしも虚しく、相手の男は素早く胸元から名刺を取り出してこちらに害のないことを示してきた。
仕方なく名刺を受け取った航は反射的に自分の名刺を取り出しかけたが、ジャーナリストを相手に名刺交換をする必要もないかと考えて手元に視線を移した。
やはり相手は名前も知らない小さな雑誌社の記者だったが、名前を見るとそれには覚えがあった。
「……高倉脩平」
水橋嶺二の事件についてネットに記事を掲載し、警察に対しても好戦的な態度を示していたあのジャーナリストと同じ名前だった。
「水橋嶺二殺害事件のことで、そちらの方にちょこっとインタビューさせて頂こうとしていただけなんすよ。おたくは、同じ会社の人?」
「そうですが」
航が振り向くと、今井は眉間に皺を寄せながら彼を睨みつけている。前へ向き直った彼は男に対し、「あの事件は自殺で片が付いたはずでしょう」と落ち着いた口調で言った。
「そうやって面白半分に騒ぎ立てられるとわが社としても迷惑ですし、何よりご遺族の方々に失礼だとは思いませんか?」
「面白半分ですか」
航の言葉に含み笑いをした高倉は、ぼさぼさの髪を掻きながら「迷惑と言われましても、これが私どもの仕事ですからねぇ」と答えた。
「それにあれは、単なる自殺じゃないでしょ。そこに隠れている女性が大学時代に水橋嶺二と交際していたことを、おたくはご存じで?」
交際関係? 水橋嶺二と、今井が?
「私はね、今回の事件がとある地方で起きた七年前の事件と何らかの繋がりがあるんじゃないかと考えてるんですよ。これでもね、結構頑張って調べたんです。苦労しましたよ。なんせ弱小のゴシップ紙ですからやるとなったら命がけです」
高倉は続けて煙草に火をつけながら、「そこのお嬢さんが七年前の事件に関わっていると私は踏んでるんですがね。あくまで面白そうだからという発想ではありましたが、いい線行ってると思います。おたくは? その事件についてはご存じで?」
「事件って……。それは一体どういう――」
「昔付き合っていたから、何だっていうんですか!」
高倉の話につい興味を引かれた航が言葉を発しかけたところで、今井は背後から口を挟んだ。
「先輩、こんな人の相手する必要ないですよ!」
「お、おう。そうだな」
航は彼女に腕を引かれるまま歩き出した。
高倉は黙って二人を見送っていたが、やがて地面に捨てた煙草を踏みつけると「もしあなたが現在の交際相手なら、気をつけてくださいよ!」と大きな声で言った。
「なんせそこの今井莉緒菜って女は、今までに恋人が何人も亡くなってますからね」
航は彼の言葉に足を止めかけたが、隣を足早に歩き進む今井がどこか思い詰めた表情を浮かべていたので、ひとまずこの場は彼女を優先することにした。
駅前に到着した航が後方を確認すると、高倉の姿は窺えなかった。
「助けてくれてありがとうございます、先輩」
航の袖を握りしめたまま歩いていた今井は、手を離して胸をなでおろした。
「あの、さっきの話ですけど……」
「話したくないなら、無理に話す必要はないよ」
後輩の過去について干渉するのは、上司の役割の
「けど、困ったことがあったら何でも言えよ。力になれるかどうか分からないが、話ぐらいは聞いてやるから」
「……はい。ありがとうございます」
「それじゃ、また明日な」
改札を抜けた航は、慎重に階段を上り始めた。未だ改札の外で俯いたままの彼女をこのまま置いて帰って良いものかどうか迷ったが、あちらが話したがらないうちはこれ以上むやみに首を突っ込む訳にもいかないだろう。
水橋嶺二の元恋人……。
あの記者の口ぶりは、まるで今井が事件に関わっていると言わんばかりだった。二人の間に一体何があったのだろうか。それに七年前の事件とは……。
「やれやれ」
だから何だっていうんだ。あの事件は自殺だった。後輩の過去はこれ以上詮索しない。それで良いじゃないか。
階段を上り切った航は、満員電車に揉まれながら家路についた。
それから数日後。航が会社に着くと社内がざわついていた。
「おう。葉瀬川」
出社した彼に声をかけたのは先輩社員の繁盛だった。
「悪いんだが午前の研修は予定を変更してくれるか? 今井が会議室に呼び出されちまってな」
「会議室? 今井が?」
周囲ではぼそぼそと噂する声が漏れ聞こえていた。事態に困惑する者や、今井を非難するような者も多数うかがえる。
「何かあったんですか?」
「あぁ。それがな……」
言いづらそうに顔をしかめた繁盛は彼に顔を寄せ、「朝会社に来たら、全メールで妙な噂を流した奴がいてな」と言った。「発信元は不明なんだが」
「メール?」
デスクのパソコンを素早く起動した航は、新着メッセージを開いて読み始めた。そこには今井と水橋が元交際相手であったことが明かされており、なおかつ水橋嶺二は今井の手によって殺害されたのではないかという根拠のない憶測が書き綴られている。
「こんなの言いがかりでしょ!」
航が声を荒げると、繁盛はひとまず落ち着くように彼を宥めつつ「俺だってそう思ってるよ」と答えた。
「だがな、こういう噂が出回った以上、会社側としては一応ヒヤリングをしなきゃならんもんなんだ」
「でも……!」
そこで航はふと、先日彼女の前に現れた高倉という記者が大声で話していた内容を思い出した。近くで耳にした者がいたのではないか。いや、奴と接触した可能性だってある。
「問題はこんな内容のメールを流した奴ってことになるんだが、俺の方では一応目星もついてるから、近いうちに何とかしておくさ」
「目星って……」
周囲を見回した航は、隅の方で他の女性社員と噂話に花を咲かせる峯岸の姿を見た。先日の給湯室での一件から考えても他に思い当たる節はなかったが、ここで彼女を問いただしたところで何の解決にもならないことは彼にも理解できた。
「……頼みます。繁盛さん」
「おう。任せとけ」
航の背中を叩いた繁盛は周囲の者へ仕事に戻るよう促し、デスクに帰っていった。
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