第34話
「菫? 今日も学校に行かないのか?」
亜美と言い争いをした日から、菫は学校を欠席していた。時おり碧が夢の中を訪ねて来るものの、屋敷の門を閉ざした彼女は一人部屋に籠って過ごしていた。
「お母さん……」
手に握りしめたお守りだけが、彼女の心を落ち着かせてくれた。それは温かい言葉を語りかけてくれる。
(大丈夫……。大丈夫……。)
彼女の頭をなでる母親の姿がベッドのすぐそばに感じられる。この温かさはまさしく母の温もりだった。
目を瞑った彼女は、ベッドの中で丸くなりながら眠りに落ちた。
「お父さん?」
日が暮れた頃になってようやく目を覚ました菫は自室を出て父親の姿を探したが、どこにも見当たらない。
彼の寝室やリビングを巡っても姿がなく、未だ診療所から戻っていないのだろうと思った。
「……お腹空いた」
仕方なく自室に戻ろうと菫がリビングを出たところで、廊下の隅に見覚えのある黒い扉が見られた。
古びた木製の扉。錆びた真鍮の取っ手にぬめぬめとした光沢のある質感。
周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。
恐る恐るそちらに足を進めると、強固な南京錠で施錠していたはずの扉が僅かに開いている。
「ひぃっ!」
煙のようなものが漏れ出た扉の開口部からは、血まみれの腕が伸びていた。
血管が浮き出るほどに真っ白な肌。骨張った皮膚。見るからに屍の姿をしたその腕は鈍重な動きで地面を這いずり、指先はそれと対照に生々しい動きを見せていた。指を動かすたびに骨同士が擦れるようなシャリシャリという音が周囲に鳴り響いている。
その光景が恐ろしくなった菫は、すぐさま踵を返して階段を駆けあがった。
自室の扉に鍵をかけた彼女はベッドに飛び込むと布団を被り、頭まですっぽりと覆い隠した。常夜灯に照らされた薄暗がりの中、彼女はぶるぶる震えながら布団の中で丸まっていた。
これは夢、これは夢、これは夢よ……!
両耳を塞いでいるにも関わらず、脳内に足音が響いていた。湿り気を帯びたそれは階段の下から一歩ずつ軋んだ音を立てながら、二階に向かって進んでいる。片足が上ると、続いてもう片方の足がどすんという音を立てて段にぶつかった。
足音が階段を上りきった時、菫は相手が足を引きずっていることに気づいた。床を踏む音に続いて、衣擦れの音。それらが交互に折り重なりながら、二階の廊下を進んで彼女の寝室を目指していた。
扉の前でそれが立ち止まると、唐突に静まり返った。直前まではその息遣いまで感じ取れるようだったが、今ではすっかり消えている。
布団をめくって顔を出した菫は、扉をじっと睨みつけた。閉め切られた扉には鍵がかかっているはずで、ドアノブを回すような音も聞こえてこない。
入ることができず諦めてしまったか。それとも、聞こえていた音自体がそもそもの勘違いだったか。
布団を退けて上体を起こした菫は深いため息を漏らした。強張っていた身体からは徐々に力が抜け、脈打つ心臓の音が聞こえている。
安堵した彼女が立ち上がると、その瞬間に背後から冷ややかな風を感じた。
窓が、開いてる……? いいえ。そんなはずないわ!
「誰なの?」
菫が振り返ると、そこにはカッターナイフを片手に首を傾け、口元に奇妙な笑みを浮かべる母の姿があった。
「直ちに――すべきだ! それしか方法はない!」
「だが、それで助かるという確証は……」
彼女は夢を見ていた。光に覆われた真っ白な世界。
僅かに目を開いた彼女は眩しさに耐えかねて再び強く瞼を閉じると、男たちの声に耳を傾けた。怒声交じりに会話する男たちは何か重要なことで言い争いをしているようだったが、彼女にはその内容がまるで分からなかった。
喧嘩は、やめて……。
そう口にしようとした彼女だが、なぜだか口を開くことはおろか、指一本動かすことができない。
「やはり――だ! 今は一分一秒を争う!」
「だが、そんな大掛かりなことを一体誰に頼むつもりだ?」
「――がいる。あいつには大きな貸しもあるしな。失敗なんてさせやしないさ」
やがて二人は意見が合意したのか、そそくさとその場を後にした。彼女の夢はそこで途切れ、次に目が覚めた時には陽光に包まれた部屋で横になっていた。
「菫? やれやれ。ようやくお目覚めたかい?」
目を開くとそばには父親の姿があり、菫を見下ろしていた。枕の上で首を動かした彼女が室内を見回すと、そこは自身の寝室だった。
「パパ……」
ゆっくりと上半身を起こした菫は、頭が少し重たいような気がして手を触れたが、父親は心配するように背中を支えた。
「昨日からまる一日眠っていたんだぞ。いくら起こしても起きないから、こうして待っていたんだ」
丸一日……。じゃあ、あの怖い経験もやっぱり夢。
「お腹空いただろ。ご飯にしようか」
「……うん」
「今日はパパがご飯を作ってやろう。何が食べたい?」
扉に向かって歩き始めた父親は、ドアノブに手をかけながら「夜中に時々、魘されていたように見えたぞ」と言った。「どんな夢を見ていたんだい?」
「それが、あんまり覚えていないの」
菫が頭を押さえながらそう答えると、ドアノブを回した父親は「そうか」と言って扉を開いた。
「そういえば菫にあげたあの赤い石だけどな、しばらくの間パパの友人に預かってもらうことにしたから」
「えっ!?」
菫は慌ててベッドを探ったものの、お守りは見当たらない。
「私のお守り……」
「それなら机の上さ。ずっと握りしめたまま眠っていたからね。石を拝借した後でそっちに移動しておいたんだ」
「……そう」
不思議なもので、赤い石がなくなったと聞いた瞬間はパニックを起こしかけたにも関わらず、すでに落ち着きを取り戻している。それどころか、全身が穏やかな気持ちで満たされていた。よく眠ったせいだろうか。
「パパは下でご飯の準備をするから、呼んだら降りて来なさい」
「うん。もう起きるから」
ベッドから飛び起きた彼女は、父親と共に一階に降りるとベランダの窓を開けて菫色の花の方へ向かった。
近くに寄って見下ろすと、それは陽光を受けて薄っすらと輝いている。
「――あなたも、とっても綺麗ね」
花に向かって一人呟いた彼女は、朝陽に対する葛藤がすっかり晴れていることに気がつくと、太陽の光を浴びながら不敵な笑み浮かべ始めた。
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