第33話

 菫は廊下からこっそり教室を覗いてみたが、莉緒菜の姿はないようだった。予鈴が鳴っても彼女が現れることはなく、今日は欠席だと知った。


 あのあざは、間違いなく私が保健室でつけたもの……。


 菫が一人で物思いに耽る間にも午前中の授業が消化され、彼女は悶々とした気持ちのまま昼休みを迎えた。


 非常階段を見ると、昨日の雨で濡れた箇所もすっかり乾いていた。菫が階段を上っていくと、最上階で話す朝陽と碧の姿が見えた。二人は彼女のことを話題に挙げ、莉緒菜についてどのような対策をすべきか悩んでいた。


 菫の姿に気づいた二人は話を切り上げたが、気まずい空気がその場を満たしている。


「菫ちゃん、あのね」


 碧が声をかけたが、それを無視して朝陽の方へ足を進めた菫は「朝陽さん」と言って至近距離に寄った。


 彼女を見遣った朝陽は口に咥えていたストローを外し、「どした?」と問いかけた。


 彼は、私を待っている。


「昨日の保健室でのこと……」


 さらに顔を近づけた菫は息を呑み、ねっとりとした視線を彼の首筋に向けた。


「朝陽さんは、覚えてますか?」


「昨日の保健室?」


 首筋の痣を熱心に見つめる菫に異様な気配を感じ取った碧は、「保健室に連れて行ったら、すぐに私が来たんだよね?」と会話を整理するように言った。


 碧の記憶では、朝陽から送られてきたメッセージを見て彼女が保健室に駆けつけた時には彼らはびしょ濡れになっており、菫がタオルで髪を拭いているところだった。その後は碧が彼女に体操服を貸し、家の前まで送っていった。


「覚えてないって、……言うんですか?」


 菫は気迫のこもった目つきで彼の手に触れ、「それとも、とぼけてるんですか!」


 恥ずかしがり屋の彼は、きっと私を待っている!


 戸惑ったように彼女を見遣った朝陽は、続けて眉間に皺を寄せながら「昨日の子のことならこっちもどうするべきか考えてたとこだよ」と答えてやんわり手を振り払おうとしたが、手首を握りしめたまま離そうとしない菫は「……キス」と小さく呟いた。


「あの時、私にしてくれましたよね」


「……はっ?」


 さっぱり合点がいかない様子の朝陽は、なおも顔を近づける菫から目を逸らしたが、舐めるように指先で痣に触れた菫は「その痣……」と囁いた。


「私がつけたの」


「ちょっと、菫ちゃん……」


 碧は二人を仲裁しようとしたが、その瞬間に下の階から駆け上がってきた亜美が彼らの間に割って入った。彼女は朝陽に迫る菫を引き剥がすと、「冗談にしてはちょっと悪ふざけが過ぎない?」と言った。


 肩を竦めた亜美はその場を笑って流そうと試みようとしたが、彼女越しに朝陽を見つめる菫は「だって、私がつけたんです」と執拗に痣を指さしている。


「あの時、あなたは約束してくれた」


「菫ちゃん、ふざけるのもその辺にしておいた方が――」


 碧が腕を掴むと、それを嫌がるように振り払った菫は彼女を睨みつけながら「邪魔しないで!」と言った。


 今度ははっきりと、目を合わせて言われてしまった。血の気の引いた表情を浮かべた碧は、何も言い返せずにその場に固まっていた。


 朝陽に視線を戻した菫は、彼に手を伸ばしながら「約束したのよ」と言った。


「この人と別れて私とお付き合いするって。あの時、何度も私とキスを交わしながら――」


 と、菫がそこまで話したところで亜美が彼女の頬を平手でぶった。


「菫。あんた今日おかしいよ?」


 厳しい表情を浮かべた亜美は、後輩を叱るときのように腰に手を当て、「昨日のことが怖かったのは分かるけどさ、だからってあることないこと言うもんじゃないでしょ」


「だって、朝陽さんの首には私のつけた痣が――」


「私がやったに決まってんでしょ!」


 怒ったように言い返した亜美は、「朝陽に助けてもらっておいて、どうして迷惑になるようなことするのよ」と彼女の肩を揺らした。


「私はあの時に約束したの。朝陽さんにベッドに押し倒されて――」


「朝陽がそんなことするわけないでしょ!」


「二人とも!」と叫んだ碧は、彼女らに割って入った。


「一旦落ち着こうよ。きっと何かの勘違いだから」


「勘違いも何も、俺は手出してないけど」


「朝陽は、少し黙っててくれるかな……」


 弱った声で彼に言い返した碧は二人を見遣り、「菫ちゃんはきっと、そういう夢を見たんだよね? 怖いことがあったから、助けてもらったのが嬉しかったんだよね。でもそれは現実じゃなくてただの――」


「違うもん! 私は朝陽さんにキスされたの!」


「……菫ちゃん」


 昨晩に菫の夢をまさしく目撃していた碧は、夢と現実を混同する彼女が昔の自身と重なって心苦しい思いだった。


 理解してもらえないことが悲しくて、寂しくてたまらない。


「あの火事の日だって、朝陽さんは私のことを一番に助けてくれたのよ。強姦に襲われそうになった時だって、海で溺れかけた時だって全部私のことを――」


「おい……。一体何の話だ?」


 菫を白い目で見る朝陽の表情。それは過去に碧自身が体験した中で最も悲しいものだった。友人から見えない境界線を引かれ、別の次元へ追いやられる恐怖。頭のおかしな奴だというレッテルを貼られ、迫害を受ける苦しみ。


「まだ、忘れたふりを続けるつもりですか!」


「もうやめよ」


 菫の肩を掴んだ碧は彼女の瞳を真っすぐに見つめ、「それは全部夢なんだよ! 現実じゃないの。あなたは、……勘違いをしているのよ」


「…………」


 悔しそうに目を逸らした菫は、拳を握りながら身体を震わせていた。


「ね? とりあえず落ち着こ。みんなでご飯を食べて、お話しようよ」


 碧が彼女の頭を優しくなでながら宥めていると、階段に足をかけた亜美は「ごめん、碧」と乾いた声で言った。


「今日はちょっと、みんなで一緒にいる気分じゃないかも」


「おい、亜美!」


 目も合わさずに階段を駆け降りる彼女の後を追った朝陽は一度だけ碧の方を振り返ったが、すぐに前に向き直って走り去った。


 取り残された菫が涙を流しながら崩れ落ちると、そんな彼女を支えて背中をさすった碧は「ごめんね。私が色々と連れまわしちゃったせいだ」と言った。


「碧さん。私……」


 泣きながら胸に顔を埋める菫をあやしながら、碧は同じように涙を流した。

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