第32話

 翌朝、支度を済ました菫は庭に向かって花に水をやり始めた。


「あの人のことを考えると、胸が苦しいの」


 菫のつぶやきに対し、花は黙って彼女を見つめている。


「あの人には恋人がいるの。だから私はこの気持ちを忘れないと……」


(奪ってしまえばいいのに)


 声が聞こえた気がして菫が顔を上げると、水に濡れた菫色の花は左右に首を振るような形で風に揺られていた。


「……奪う。駄目よ! そんなの」


 感情的になって声を荒げた菫は、余った水を周囲の草花に向けてばら撒いた。


「あれは事故みたいなもので、恋愛感情はなかったはずよ」


(事故でキスはしない。彼はあなたを待っている)


「……キス」と呟いた菫は、指先で唇に触れると頬を赤く染めながら顔を覆った。


「私にそんな勇気はないわ。亜美さんはお友達だし、奪うなんてそんな……」


(――が変えてくれる。ポケットに中にそれはある)


「ポケットの、中?」


 スカートに手を入れてお守りを取り出した菫は、中から赤い石を摘んで抜き取った。久々に見るそれは以前よりも輝きが増しており、濃度のある蜜が滴っている。


 指に垂れたそれをひと舐めすると、この上ない至福の味が口内に広がった。


 欲しい……欲しい……、欲しい……!


 脳内が欲情に染まっていく。赤い石を舐め始めた彼女は、一瞬でその味の虜になった。輝く石を覆う蜜は洪水のように溢れだし、肘の辺りまで垂れ流されている。


「もう、我慢できない……」


 彼女は指先で摘んだそれを口元に近づけた。


 ゆっくりと口を開き、一息にそれを飲み込もうとしたところで、背後から彼女を呼ぶ声が聞こえた。


「おはよう。菫ちゃん」


 玄関の方を振り向くと、そこには碧が立っていた。


「ちょっと早く出すぎちゃったから、家まで迎えに来ちゃった」


 彼女の手元を眺めた碧は口元に薄っすらと笑みを浮かべ、「またそれを見てたの?」と言った。


 菫が視線を戻すと、指先でつまんだ赤い石はすっかり輝きを失っていた。今では溢れんばかりの蜜も消え失せ、甘い香りもしない。


 お守りの中に石を戻した菫は、目の前に咲く菫色の花を見遣った。先ほど会話をしたように思われたのは気のせいだったのか。


「身体の具合はどう?」


「えぇ。もう平気よ」


 昨日の一件を案じ、待ち合わせの四つ角ではなく自宅まで迎えにきた碧はその後も気を配って色々と菫に話しかけたが、本題をないがしろにした話題には冴えがなく、加えて彼女がうわの空だということもあってか、会話は淡白なものばかりになった。


「昨日の夜ね、菫ちゃんの夢に行こうと思ったんだけど」


 どこか気まずそうな表情を浮かべる碧の顔を虚ろな表情で見遣った菫は、朝陽との体験を思い返していた。


 思わず身体が疼き、体温が上がる。


「昨日の夜は考え事をしていて、上手く寝つけなかったの」


「そう、……なんだ」


 菫の答えを聞いて続く言葉を飲み込んだ碧は、前に向き直った。


「――じゃあ、またお昼にね」


 碧が二年の下駄箱に去っていくのを見送った菫は、少し遅れてやってきた朝陽が校門の辺りにいるのを発見し、反射的に足が向かった。


 勢いよく校舎から飛び出した彼女だったが、彼の隣にもう一人いることに気づくと立ち止まって拳を握った。


「あ、菫!」


 朝陽の隣を歩く亜美は菫の存在に気づくと、走って彼女の方へ駆け寄った。


「聞いたよ、昨日のこと。大丈夫だった?」


「はい。平気です」


「また何かされそうになったら、すぐに言いなよ!」


 菫の肩に手を触れた亜美は次いで声を抑え、「やっぱり、担任の先生には話した方が良くない?」と言った。


「でも……」


 菫が言葉を詰まらせると、亜美の後ろから顔を出した朝陽が「ひとまず大事にしない方がいいだろ」と言った。


「昨日の今日で、また同じようなことはしないと思うし」


 朝陽の声に頬を赤らめた菫は、至近距離の彼を直視することが出来なかった。


 彼は覚えている……。そのうえで、忘れたふりをしているんだわ。


「何もしてこないっていう保証もない訳でしょ?」


 亜美の言葉に肩を竦めた朝陽は、「保証はないよ」と答えた。「放課後は碧が一緒だし、俺はもう少し相手の出方を見てから動いた方が良いと思う」


「それは、確かにそうだけど」


「あの――」


 二人に割って入った菫は、「朝陽さんは一緒にいてくれないんですか」と尋ねた。


 彼を見上げると、首筋に薄っすらと痣のような跡が見られた。


 あれは私が……? そうよ、保健室で二人きりの時に……!


「俺? 俺は今日も部活があるしな」


「うーん。私も同じく。終わるまで待ってもらうのはさすがに悪いしね」


「わたし、待ってます!」


 朝陽の顔を真っすぐに見つめた菫は彼の方から手を取ってくれることを期待したが、の彼は頭を掻きながら弱った表情を浮かべている。


 仕方なく彼女の方から手を差し出すと、隣に立っていた亜美がそれを握った。


「ごめん、菫。今は大会も近いから私たちを待ってるとすっごく遅くなっちゃうの。だから今日は碧と二人で帰ってね!」


「でも、私は朝陽さんと――」と菫が口にしかけたところで、校舎から予鈴が鳴り響いた。


 自分は何を口走りそうになったのか。


 ふと我に返った彼女は、突然二人に背を向けて走り出した。


 背後から声をかける亜美の声も聞かず、菫は校舎の中へと消えていった。

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