菫 6月4日
第31話
検査で学校に遅刻した菫は、教室に入った瞬間の刺されるような視線に鳥肌が立った。俯いたまま席についた彼女をクラス中の生徒が見つめている。鋭利な視線で身体中をずたずたに切り刻まれた彼女は、夢の世界での幸せな時間を思い返すことで精神の安定を保っていた。
碧と共に友人たちの夢を体験して以降、菫は一人で朝陽の夢を毎晩のように訪れていた。彼女は夢に巻き込まれやすい体質を持っており、重要人物として幾度となく彼に助けられた。朝陽に対してすっかり恋心が芽生えてしまった彼女は、四人で昼食をとる際も彼を意識して食事が喉を通らなかった。
「ひと雨、来そうね」
その日の放課後、教室の隅で校庭を眺めていた菫は委員会に向かった碧を待っていた。遅くなるので先に帰るように言われたが、どうせ帰ってもすることがないので一人で時間を潰していた。
表は曇天が覆い、肌に纏わりつくような湿気が漂っている。今にも雨が降り出しそうな気配に折りたたみ傘を持っているか不安になった菫が振り返ると、その瞬間に思わず息を呑んだ。
「どうして。塾に行ったんじゃ……」
後方の扉から菫に忍び寄った莉緒菜は彼女に見つかるとその場で立ち止まり、後ろ手に組んで笑みを浮かべた。
「あーあ。見つかっちゃった」
「何を隠しているの?」
彼女を指さした菫は、窓際に一歩後退した。背後に隠し持っていたカッターナイフを見せた莉緒菜は、その道具特有の“カチカチカチ……”という音を鳴らしながら刃を出し入れしている。
「体育祭実行委員で使っていたの」
自身の机に向かって歩いた彼女は中からノートを一冊引き抜いて鞄にしまいながら、「あなたに言われなくても、塾にはこれから行くところよ」と言った。
碧と登下校を始めてからは菫が教室以外で莉緒菜と顔を合わす機会もなくなっていた。最近は放課後になると塾に通っている様子で、彼女も平穏な日々を送れている。
「近ごろお話ができなかったから、少し寂しかったかも」
莉緒菜は菫の方へと足を進めながら、「新しいあの人を待っているのかしら。ねぇ、優しくしてくれる? 嫌な目に遭ったりしてない?」と早口に尋ねた。
「嫌な目になんて」
菫は反射的に後ろへ下がろうとしたが、窓枠に背中を押しつけていたためそれ以上距離を保つことができなかった。
手を伸ばした彼女に菫が肩を強張らせて目を閉じると、「毛先が少し傷んでるね。寝不足なんじゃない?」と言って莉緒菜は髪に触れた。
愛おしそうに髪を撫でる彼女に対し、菫は怯えながら斜めに首を反らせた。
「ちゃんと、寝てるよ」
「ふーん」
菫の回答に腹を立てた莉緒菜は突然乱暴に髪を掴むと、「毎日気持ちよく、ぐっすり寝てるんだ?」と顔を近づけた。
「私のことを放っておいても、平気で眠れるんだね」
「莉緒菜ちゃん、痛いよ」
「最近湿気がすごいでしょ? 菫ちゃんの髪はとっても綺麗なロングヘアーだけど、やっぱり見ていてちょっと暑苦しいというか、今よりもほんのちょっぴり短くした方がすっきりすると思うんだよね」
“カチカチカチ……”。
菫の髪を掴んだままもう一方の手でカーターナイフの刃を出した莉緒菜は、それを毛先に当て、「私、短い髪の菫ちゃんも素敵だと思うなぁ」
「莉緒菜ちゃん、やめて。危ないから」
「大丈夫。上手く切ってあげるよ」
莉緒菜は刃先を根元の方へ移動させると、「でも、万が一失敗しちゃっても文句は言わないでね。初めてなんだし」と耳元で囁いた。
「いやっ……!」
菫が手を振り払うと、刃の位置がずれて毛先が少し切り落とされた。
「ほらぁ。駄目でしょ、動いちゃ!」
地面に落ちた髪を見て呼吸を荒げた菫は、なおも刃を向ける莉緒菜の視線が恐ろしくなってその場から逃げ出した。
教室を出た彼女は全力疾走で廊下を進み、次いで目についた階段を下の階まで駆け降りた。途中の踊り場で一度振り返ると“カチカチカチ……”という音がすぐ頭上で聞こえ、迫りくる気配に悲鳴をあげた菫は死に物狂いで走った。
渡り廊下に出た彼女は上履きのまま中庭に進んだが、校舎の間の狭い通路にはブルーシートのかかった木材が積まれて通行不可能になっていた。
「どうしよう……」と呟いたその時、頭頂部に冷たいものが触れた。
見上げると、雨が降り始めている。
雨粒が大きく、一瞬にして豪雨になったそれを避けようと菫が引き返した時、渡り廊下にやって来た莉緒菜と運悪く鉢合わせてしまった。
「どうして私から離れていくのよ!」
菫の手首を掴んだ莉緒菜は先ほどの狭い通路へ彼女を追いやると、カッターナイフの刃を頬に近づけながら「この綺麗な顔のせいなのね!」と怒鳴った。
「この綺麗な顔さえなければ、誰もあなたに近寄らないのよ!」
小指の先で菫の頬に触れた莉緒菜は、口元を歪ませて奇妙な笑い声を漏らした。
「本当はね、あなたの綺麗な顔が誰よりも好きなのよ。憧れているの。……だけど、浮気性のあなたを引き留めるには私も覚悟を決めないと駄目よね」
「いやっ! 離して……!」
涙を流してやめるように懇願する菫の姿を見た莉緒菜は、どこか得意げな表情を浮かべながら刃を近づけた。
「大丈夫、痛くしないから」
そこへ突然、渡り廊下の方から地面を蹴って走り寄る足音が聞こえた。
莉緒菜が振り返ると、彼女のすぐ目の前には運動服姿の朝陽が立っていた。
「な、何よ?」
莉緒菜は牽制するように彼の方へ刃先を向けたが、朝陽はそれを意に介さず彼女の手首を掴んだ。
「冗談のつもりか?」
彼の腕には包帯が巻かれており、それはあの日の火事の時についた傷ではないかと菫は思った。
「痛いじゃない!」
怒鳴り散らしながらカッターナイフを地面に落とした莉緒菜に対し、朝陽はゆっくりと顔を近づけ、「理由はよく知らんけど、人に向けてそんなもん振り回すのは間違ってないか?」と静かに言った。
濁った低い声で話す朝陽の言葉には、とてつもない威圧感があった。
思わず目を逸らした莉緒菜は声を震えさせ、「じ、冗談に決まってるし……」と答えると、そそくさとその場から逃げ出した。
莉緒菜の姿が見えなくなると、緊張の糸が切れた菫はその場にへたり込んだ。
地面に落ちたカッターナイフが目に入り、身体が凍りつく。
死……。ママが私を迎えに来るんだわ!
菫が震えながら自身の肩を抱くと、「怪我ないか?」と言って顔を覗き込んだ朝陽は地面に落ちたナイフを拾ってポケットにしまった。
肩を貸そうと屈んだ彼の手のひらからは、僅かに血が流れていた。慌ててハンカチを取り出した菫は、それを傷に押し当てる。
朝陽は夢と同様の優しい笑みを浮かべると、「ハンカチ、汚れちまうな」と言った。
まさしく稲妻に打たれたように全身が痺れた彼女は、降りしきる雨の中で彼を見つめ続けていた。
気づけば菫は、保健室のベッドに横たわっていた。
カーテンの隙間からは西日が差し込み、橙色の光が周囲を染め上げている。
電気は灯されておらず、室内は薄暗い。
菫は心臓が荒々しく震え出すのを感じた。
「あ、あの……」
ベッドで身を起こした菫は、隣に立って彼女を見下ろす朝陽に感謝の言葉を述べようとするも、緊張で声を発することができない。
顔を近づけた彼は耳元で何かを囁いたように思えたが、脈打つ心臓の音が邪魔でそれも聞き取ることが叶わなかった。
これは夢? それとも現実なの?
彼女の額に手を当てた朝陽は、「熱があるんじゃないか?」と尋ねた。
彼に触れられてさらに体温が上昇した菫は、火照った顔をこれ以上見られまいとかけ布団を被った。
「そろそろ碧も終わると思うから、呼んで来てやるよ」
その場を去ろうとする朝陽の腕を掴んだ菫は、ベッドから飛び起きて彼に身を寄せた。指先で彼女の髪をそっと掻き上げた朝陽は、右の頬に触れて顔を近づける。
暗闇の中で抱擁を交わした二人は、唇を重ねながらベッドに横たわった。
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