第30話

 妻が心の平穏を取り戻すにつれ、娘の悪夢は取り除かれていった。


 けれどある時に妻が庭で倒れているのが発見され、脳内に電磁波を帯びていると分かった頃から彼女の中に綻びが生じ始めた。


 塞ぎ込む日が続いていたかと思えば突然明るくなり、また別の日は理由もなく刺々しい態度を取ったりと精神的に不安定な状態だった。


 それが一時回復の兆しを見せ始めたのは、恐らく慎二が都心部から田舎町への引っ越しを決意した頃だろう。


 よく晴れた日の昼下がりのこと。妻は庭で花に水をやり、慎二はたまの休みくらいはとキッチンで昼食の準備をしていた。


 料理の仕上げに入る頃合になって妻を呼びに行った彼は、熱心に庭を掘り返す彼女の後ろ姿を見た。


『切りのいいところで食事にしないか?』


 植物を愛する彼女は引っ越しが決まった直後から植え替えの準備を始めていた。それゆえ庭で土いじりをする姿は見慣れており、その日もいつもと何ら変わらない光景だと彼は思っていたが、振り返った妻は爪の先まで土で汚れていた。


 わざわざ色移りしやすい白のワンピースを着て、汚れた手を何の抵抗もなく服の一部で拭っている。


 普段の彼女はつなぎ姿にスコップを用いていたので、慎二にはその光景がどこか異様に思えた。


『どうしてスコップを使わないんだ?』


 慎二の言葉に対し、うつろな表情で口元に笑みを浮かべた彼女は「だって、この子は慎重にやってあげないと根が切れてしまうじゃない」と答えた。


 それは妻が最も大事にしていた花で、数年前に死んだ飼い犬を埋めた付近から突然生えてきたものだった。


『この子、スコップはひどく嫌がるの』


 慎二はあたかも植物を我が子のように扱っている彼女の様子に少しぞっとした。


『ブラシを使わないと、それは落ちないかもしれないぞ』


 彼女の手を眺めた慎二は、少々鬱陶しそうに言ったかもしれない。その時の気持ちまでは、もはや覚えていない。


 だがその光景を思い返してふと頭に浮かんだのは、彼女が話す口元に赤い色の飴玉が見えたということだ。


 妻は日常生活において、ガムや飴を一切口にしない人だった。噛むのが煩わしいだとか、口の中がべたつくのが嫌いだとかいう理由だった気もするが、そんな彼女がぺろぺろと口の中で動かしているものを見てどこか不思議に思った記憶が彼の中に蘇った。


 あれは本当に飴だったのか……?


「学校生活も、問題ないね?」


「パパったら……。ほんと心配性なんだから」


「はは。そうだな」


 あの時の赤い飴玉。それは妻の体内に残されていたあの石ではないのか?


 なぜそう思ってしまうのだろう。ただの飴玉の可能性の方が遥かに高いのに。


 だがそう思い始めた今となっては、彼が脳裏に思い描くあの時の妻の姿は赤い石を頬張っていたものにすり替わっている。


 紺野から検査結果が出たという知らせを受けた慎二は、菫を見送ったその足で病院に向かった。通常は三日以上待たされる検査だが、友人ゆえに融通を効かしてくれたようだ。


「菫はどうなんだ」


 慎二の問いかけに対して難しい顔をした紺野は、「……残念なことに、百合子さんと同様の微弱な電磁波が脳の一部に見つかったよ」と答えた。


「何だって!」


 立ち上がった慎二は彼に迫ると、両肩を掴んで睨みつけた。「菫はもう長くないってことか?」


 百合子は脳の電磁波の発見後から数か月あまりで精神を患い、こちらがそれを立て直そうと右往左往する間にとうとう命を絶った。


 娘にも同じことが起こるのではないかと懸念した慎二は絶望を露わにしていた。


「それは断言できないよ」


 首を振った紺野は検査結果のデータを見せた。


「脳の電磁波が悪さをしていると一概には言えない。なんせ情報が不足し過ぎているからな。ひょっとすると、百合子さんの死とは全く関係ないのかもしれない。前にも言ったが、僕の仮説では電磁波が脳に良い影響を与えるはずなんだ。それを増幅する装置として、あの赤い石が存在している」


「だが、こうも考えられないか?」


 慎二は脳裏に一つの推論を思い描いていた。


「電磁波はあくまでも悪性のもので、それを中和するのが赤い石の役割である」


「そうか。それは大いにありうることだ!」


 頷いた紺野はデータを今一度見直した。


 「それなら、なおのこと赤い石の効力について早急に実証性を示さなければならない。今日は持って来てるか?」


「あれなら今は菫が持ってるよ」


「菫ちゃんが? お前、まさか……!」


 慎二の思惑に勘づいた紺野は一瞬だけ顔を歪めたが、すぐさまデータの方へ視線を戻した。


「お前の仮説が正しければ、君の娘さんを助ける方法はあれをそばに置いておくしかないか」


「恐らくそれだけでは不十分だ。たとえ胃袋に放り込んでもな」


「なに?」


 顔を上げた紺野は彼に鋭い視線を送った。


「どういうことだ!」


「紺野よ、約束しろ。俺と一緒に娘の命を助けるとな」


「あぁ、もちろんさ。お前が協力的な態度を示すなら、俺だっていくらでも手を貸すよ」


「ふん。いいだろう」


 慎二は診察室の扉に鍵が掛かっていることを確認すると、妻が庭先で赤い飴玉を舐めていたことや、火葬場で赤い石を発見するに至った経緯を話り始めた。

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