慎二 6月4日

第29話

「近頃はどうだ? 学校は楽しいかい?」


 喫茶店で菫と向かい合った慎二は、一向に目を合わせようとしない娘を見ながら指先で机を軽く叩いた。


「聞いているのか?」


「えぇ、パパ。とっても楽しいわ」


 取ってつけたような笑みを浮かべる菫は、以前よりも少しやつれたように思えた。


 MRIによる脳の検査を終えて病院のそばにある喫茶店を訪れたものの、彼女は飲み物には手をつけずにストローでかき混ぜ続けている。


「学校で、何かあったか?」


「ううん。何もないの。でも、最近少しだけ気になることがあって」


 会話の初めにハードルを下げるのは、慎二の元を訪れる患者によく見られる傾向だ。


「どんなことでも構わないよ。菫の話を聞かせておくれ」


 精神的に不安定なところのある彼女は、学校という集団生活の場にストレスを受けやすい。母親を失ってからは特にその傾向が強くなった。時々診療所を訪れるように促してはいるが、病院嫌いの彼女は滅多に足を運ぶことがない。


 頬を赤らめて身体を揺らす彼女は、照れたような素振りを見せている。これはもしや思春期にありがちな悩み事かと思った慎二は、「お友達とは仲良くしているかい?」と話題を振ってみた。


「うん! 碧さんはね、とっても良い人なの。最近は二人でよくお出かけしてるのよ。あとは亜美さんとか、朝陽さんも素敵で……」


 途中で言葉を詰まらせたところを見ると、やはり娘は異性に好意を抱いているのではないだろうか。


 精神的なハンディキャップを抱えているがゆえ、これまで恋愛というものを経験してこなかった彼女は自身の感情に困惑しているように見えた。


「たくさんお友達ができて良かったね。どんな人たちなんだい?」


 慎二の問いかけに対して菫は嬉しそうに頷くと、「碧さんは私の理解者なの。とっても話しやすい人だわ」と答えた。


「亜美さんは明るくてお洒落で、今度一緒にお洋服を買いに行く約束をしたの。それで、朝陽さんは……」


 一度間を置いた彼女は大きく息を吸い込み、「朝陽さんはね。えっと、その……。とっても頼りになる人なの」


「ほう。頼りになる人か。どんな風に頼れるんだい?」


 慎二がさらに踏み込んでいくと、菫は興奮したように拳を握った。


「いつも私のことを助けてくれるの。この間は駅のホームで足を踏み外しそうになったところを支えてもらったし、その前は恐い人に絡まれているところを助けてくれたわ」


「短い間に随分と危険な目に遭ったもんだ」


 その男の子には改めてお礼の品を送った方が良いのではないかと慎二が考えていると、「でも一番はやっぱりあの火事の日のことかしら」と菫は言った。


「あの人は勇敢にも窓を割って私のことを救い出してくれたの」


「火事?」


 近頃この辺りで火事が起こっただろうか。慎二は思わず首を傾げたが、ひとまず怪我はないようで安心していた。


「今度パパにもお友達を紹介してほしいな」


 彼の言葉に頬を赤らめた菫は、「……恥ずかしいし、もっと仲良くなってからね」と答えた。


「待ち遠しいなぁ」


 娘の近況をひと通り聞き終えたところで、慎二は本題に入った。「ところで、あの石は持っているのか?」


「石?」と首を傾げた菫は、気づいたようにポケットからお守りを取り出した。


「えぇ。とっても気に入ったから、いつもこの中に入れて持ち歩いているの」


 気のせいか、目の前のお守りからどこか甘い香りが漂うような気がする……。


 彼女がそれをポケットにしまうのを目で追った慎二は、「いつも持ち歩いているのかい?」と尋ねた。「特に変わったことはない?」


「変わったこと?」


「例えば悪い夢を見たり、注意が散漫になったりはしていないかな?」


 彼の質問を不思議に思った菫は飲み物を見つめたまま考え込んだが、やがて顔を上げると「むしろ楽しい夢ばかりよ」と答えた。


「どんな夢を見る? 具体的に教えてくれるか」と慎二は言った。


 彼の執拗な問いかけに眉を潜めた菫は、「どうして?」と不信感を露わにしている。


「この宝石と何か関係があるの?」


「いや、そうじゃないさ」


 肩を竦めた慎二は、彼女の頭を指さした。


「さっき脳の検査をしただろ? 検査の前というのは誰でも不安になるものだから、近頃悪い夢を見やしないか心配になっただけだよ」


「もう、パパったら。私はもう高校生なのよ。検査くらいで怖がったりしないわ」


「それじゃあ、いい夢ばかりなんだね?」


「えぇ。とっても気持ちの良い夢よ。パパのおかげでね」


 娘の言葉を聞いた慎二は、ふと過去の記憶を思い返した。


 子供の頃、頻繁に夜泣きをするようになった娘が悪夢にうなされていると知った彼はいくつかの防衛術を授けたが、その頃の彼女は重要な事実を隠していた。


 明確な恐怖の対象があるにも関わらず、彼女はその正体を明かしたがらなかった。それが妻に関することであると彼が知るに至ったのは、そう先のことでもなかった。


 百合子の悪癖については、もちろん慎二も知っていた。若かりし頃から彼女の心の中には時限爆弾のような仕掛けが施されていた。それも彼と二人きりの時に限って安全装置が外れる傾向にあり、彼自身も被害を受けた経験がある。


 だがそれは肉食動物が甘噛みをするような行為に等しく、慎二は気に留めてもいなかった。愛ゆえに暴走する彼女を愛しいとさえ思った。


 娘の受ける被害は、彼が受けたものの比ではなかった。緩やかな周期で風船程度の爆発を見せていたあの頃とは違い、菫の身体には頻繁に暴力を受けた跡が見られた。


 どうにかしてやめさせなければならないと思った慎二は、妻に対してメンタルケアを行った。すぐには効果を発揮しなかったものの、それは明らかに機能していた。


 内面にある執着心をそぎ落とし、物事に固執しないゆとりのある精神を植えつけた。

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