第28話
水中に潜って朝陽の夢を目指していた碧は、前方に光の糸が二本伸びていることに気がついた。
一方は橙色の光に対し、もう一方は赤みを帯びている。赤色を掴むと葉瀬川航のもとへ繋がってしまうが、碧がこの光を見かけるようになったのは高校二年に上がった直後のことだった。
新しい環境に対する怯え、そのうえ友人たちが良い関係になったことを知らされた頃で、彼女は現実から逃避できる場所を求めていたのかもしれない。
姿を思い浮かべた者の夢に辿りつく。それが碧の探し当てた法則のはずだったが、彼の存在によってそのルールは破られてしまった。
本当はもっと別の要因があるのかもしれないし、ひょっとすると葉瀬川航という人物が法則の外に当たる可能性もある。
けれど碧にとって、それはどうでも良いことだった。彼の夢は穏やかで居心地が良い。近頃は愚痴をこぼせるまでの間柄になり、悪い出会いではなかったと彼女は思うようになっていた。
橙色の光を掴んだ碧は、人々で賑わうショッピングモールに着地していた。付近を歩き回ってみたが朝陽はおろか、菫の姿すら見当たらない。
仕方なく二階に上がってテラスに移動すると、向かいの高層ビルから煙が上がっているのが見えた。
次いで耳を
「なるほど。今回はこのパターンね」
消防車から姿を現した朝陽は、はしご車を使って火災現場に向かっている。
「がんばれー」と朝陽の背に向かい力なく声をかけた碧は、群衆に紛れて共に火事を眺めているであろう菫の姿を求めて移動を開始した。
一方でオフィスのような室内に着地していた菫は、突然鳴り響いた非常ベルの音に耳を塞いだ。
周囲には慌てふためく大人たちの姿がある。彼女は前を通った中年女性に向かい「あの――」と声をかけた。
「火事は七階ですって! 非常階段は使えないらしいわ」
早口に応えた女性がそのまま室内から走り去ると、菫は一人取り残された。
火事という言葉に反応して途端に息苦しさを覚えた彼女が周囲を見回すと、下の階から昇ってきたと思われる煙がオフィス内に入り込み始めた。
「どうしよう……。碧さん……」
出入口を塞がれ、煙から逃げるように彼女が窓際に寄ると、そこへちょうど外から窓をノックする者があった。
「誰!?」
消防隊員のようだったが、
身振りで窓から離れるように指示された菫が様子を見ていると、外から窓を叩き割った消防隊員は彼女に手を伸ばした。
「生存者一名を発見! 速やかに降下願います」
菫の手を取った消防隊員は、建物からの脱出を図ろうと割れた窓の間を通り抜けた。
「早く外へ!」
腕を引っ張られた菫は、窓から見える景色に怯えた表情を浮かべ、「駄目よ、こんなに高いところ……」と言って避難を拒んだ。
「他に逃げ道はないの?」
「一刻を争うんだぞ! すぐに窓の外に出るんだ!」
「イヤ!」
菫が腕を振り払うと、その拍子に彼の腕が割れた窓に当たり、破片が突き刺さった。男は短いうめき声をあげたが、すぐさま破片を抜いてその場に投げ捨てた。
「あの、大丈夫ですか……?」
菫が心配して声をかけると、それに応えるようにゴーグルを外した男は「そっちこそ、怪我しなかったか?」と言った。
優しい笑みを浮かべる、朝陽の姿。その表情に不意を突かれた菫は不思議と胸が高鳴り、彼に手を引かれるままはしご車に飛び乗った。
「生存者確保! 手当てをお願いします!」
菫を地上まで送り届けた朝陽は、他に火災で逃げ遅れた者を探すべく再びはしご車に乗って上を目指した。
「菫ちゃん!」
地上で待機していた隊員に手当てを受ける菫を発見した碧は、慌てて彼女に駆け寄った。
「また巻き込まれたの? 怪我してない?」
幸い怪我はないようだと隊員の男性から説明を受けた碧はほっと胸をなでおろしたが、呼びかけに対して菫はまるで返事を寄こさない。
やがてゆっくり立ち上がった彼女は、建物に向かって一人歩き出した。
「菫ちゃん、危ないから!」
碧が手首を掴んで引き留めると、ふと我に返った菫は振り返り「碧さん? どうしてここにいるの?」と首を傾げた。
「朝陽の夢を見るために、一緒にここへ来たんでしょ?」
「夢?」
碧の言葉を聞いてもなお、菫は自分がどこにいるのか把握できていないようだった。
「――はい。これ飲んで落ち着いて」
ショッピングモールのテラスに菫を座らせた碧は、飲み物を振る舞って隣に腰を下ろした。
向かいに見える消防車の付近では、怪我人を担ぐ朝陽の姿が見られた。持ち場に戻った彼はホースを手に消火活動を行っている。
海沿いの施設ということもあってか、消火栓の確保が困難だったのか、ホースの水は海から供給しているようだった。
以前に消防隊員姿の朝陽と夢の中でばったり出くわした碧は、それはもう大変な目に遭った。
流れで過酷な訓練に参加することになり、消防器具に関する特別講義までみっちり受けさせられた彼女は、目を覚ました頃にはへとへとになっていた。
「朝陽の夢はね、一種のヒーローショーなの」
彼の姿を熱心に目で追う菫にそう話した碧は、派手な蛍光色のジュースを飲んで階下の広場を見遣った。
「いつも漫画みたいに劇的な事件や事故が起きて、あいつはそれを助けにやって来る。まさしくヒーローでしょ?」
「ヒーロー……」と呟いた菫は、彼がゴーグルを外したあの瞬間を思い返した。
温かな微笑みや、はしご車で密着した際に感じられた身体の火照り、そして胸の動悸。そのすべてがありありと蘇ってくる。
「この間はライフセーバーで、その前は医者だったかな。それで今回は消防士。漫画の影響だと思うけど、男の子の夢って単純よね」
「そうね」
菫は手に持った飲み物には口をつけず、階下から一切目を逸らそうとしなかった。
火災を沈静化した隊員たちが地上に集結すると、ゴーグルを外した朝陽がテラスの彼女らに気づいて手を振り始めた。
「呼んでる……」
菫は手すりに身を乗り出すと、そのまま地上に向かって飛び降りようとした。
「駄目だよ! ここはあなたの夢じゃないんだから」
焦って止めに入った碧は彼女の肩を掴んで声をかけたが、それに対して小さく舌打ちをした菫は「……邪魔しないで」と呟いた。
「えっ?」
碧が俯いた彼女を見つめていると、やがて顔を上げた菫は何事もなかったかのように笑みを浮かべた。
「分かってる。ぜんぶ忘れちゃうんだもんね」
続けて碧の手を取った彼女は、階段に向かって歩き始めた。
「碧さんも一緒に来て。お友達の本性を見せてあげるって言ったのは、あなたなんだから」
およそ冷静さを取り戻したように見える菫に連れられて階段を降りた碧は、朝陽と向かい合って話す彼女の姿を眺めていた。
そこには夢の世界を楽しむ純粋な気配が感じられ、当初の目的をようやく思い出したように見えた。
「あの、怪我は大丈夫ですか?」
不安げな声で菫が尋ねると、朝陽は包帯の巻かれた左の手首を動かしながら「全然平気だ。こっちこそ怖い思いをさせて悪かったな」と答えた。
普段と違って柔らかな表情を浮かべる彼に対し、彼女はすっかり気を許した様子で会話を交わしていた。
「恐い人だと思っていたけど、碧さんの言う通り優しい一面があるのね」
帰り道を確保する碧にそう話した菫は、この上なく上機嫌に見えた。
「見直したでしょ」
笑顔で応えた碧だったが、先ほどの我を失ったような彼女の姿が頭から離れず、どこか胸騒ぎを覚えていた。
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