碧 7月1日
第70話
夢の中で水に潜ると、久々に赤い光が見て取れた。彼の夢に着地した碧は、アウトドアチェアに腰かけた航に後ろから近寄った。
「こんばんは」
背後から近寄った碧が声をかけると、振り返った彼は氷入りのグラスを片手に炭酸飲料を飲んでいた。
「ようやく、君に会えたな」
「葉瀬川さんが缶ビール以外を飲んでるの、始めてみました」
この状況で最初に言う台詞とも思えなかったが、なぜだかそんな言葉が口から出た。
「そんなのあったんですね」
航はクーラーボックスのそばにグラスを置くと、近くにあったアイスピックを手に持ち、「氷とこれが追加されてたんだよ」と嬉しそうに言った。
「ウォッカがあったから、ジンジャーエールで割ってモスコミュールを作ってみた。本当はラムを使ったジャマイカン・ミュールの方が好みなんだけど、贅沢は言えないかな。ちなみにモスコー・ミュールとは直訳すると“モスクワのラバ”という意味でね、まるでラバに蹴飛ばされたような衝撃を感じるカクテルってことなんだよ」
「……そうですか」
呆気に取られた顔で碧が見ていると、彼は再びグラスを手に取りながら「ウォッカといえばカクテルベースに使用されるイメージが強いが、ロシアや東欧圏ではストレートで飲むのが通常らしい」と続けて言った。
「蒸留した原酒を白樺の炭で濾過させるお酒で、クセが少なく飲みやすいものではあるが、40度から最高で96度に達するものまである。今回現れたのは定番のピュアウォッカなので、カクテルで割るにはちょうど良いものだろうな」
「葉瀬川さんって、お酒の話になると途端におしゃべりになりますね」
彼に釣られて笑みを浮かべた碧は、どこか昔を懐かしむように「朝陽も、好きなことになると話が止まらないところがあったんです」と言った。
「特に乗り物の話になると熱中しちゃって、図鑑とか持ち出してくるんですから」
「男とはそういう生き物だよ」
「あんまりしつこく説明するもんだから、こっちも覚えちゃいました」
「うちの場合は、『そういうところがキモい!』とか妹に言われちゃうけどね」
「確かに、かっこいいとは言いにくいかも」
笑い声を上げた碧は、こんな気軽な会話はいつ以来だろうかと感じていた。彼女の周囲の環境はすっかり変わってしまった。もはや気兼ねなく会話できるのは航くらいになってしまったが、それも夢の中に限られてしまうので、自分がここ数日の間寂しさを感じていたことに今さらながら気づかされた。
「さて」
グラスを再び手にした航は、「こちらはチェックメイトというところまで情報を得ることができたよ」と言った。
「ただ、最後になって手詰まりになってしまった」
「八十島って人には会えたんですか?」
「会えたよ。そっちはやはり、紺野が亡くなっていたか?」
「はい。夢で話を聞いた翌日にはもう亡くなっていて、今朝には八十島が逮捕されたという報道を見ました。菫ちゃんも全然学校に来ないので様子を見ようと家まで行ってみたんですけど、……お父さんに追い返されちゃいました」
「七年前の藤咲慎二か」と航は言った。
隣に腰かけた碧は続けて彼を見遣り、「菫ちゃんが失踪する時期って、正確には分からないんですか?」と尋ねた。
すると彼はどこか気まずそうに俯き、「失踪か……」と呟いた。
「君にはやはり、そろそろ話しておかなければならないだろうね」
グラスの中身を煽った航は、前回はあえて口にしなかった菫の死について彼女に話した。父親によって殺害され、七年もの間山に埋められていたこと。遺体を埋めた場所から奇妙な花が咲き始めたこと、またその花の種が実はあの赤い石であったことも順を追って説明した。
「殺された……」
菫の死を耳にした碧は、彼が予想した通り放心状態になった。大事な友人を殺害した凶悪犯とはいえ、それが植物に操られて起こしたものだと知った彼女はショックを隠し切れない様子だった。
「今まで黙っていて、悪かったね」
航は一点を見つめる彼女を眺め、「僕は藤咲菫の遺体を埋めた場所に咲く花を見たよ」と言った。
「紫色の美しい花で、とても甘い匂いが漂っていた。不思議と魅力的に思えてしまい、長く見るとやがて心を奪われてしまうようだ。僕も危ういところだったよ」
「甘い香り?」
航の方を向いた碧は、確かにある時期から菫に甘い香りを感じ取っていたことを思い出した。それはどこか官能的で、美しい気配をまとった姿に碧自身も心惹かれていた。それがまさか植物の影響によるものだったなど、彼女は微塵も思わなかった。
「……そっか。だから菫ちゃんは、あの時すごく怒ったんだ」
碧は彼女に貰った赤い花を枯らせてしまったことを思い返した。菫はそのことにひどく傷ついた様子で、彼女を執拗に責め立てた。相手が植物だとしたら、あれほど怒りを顕にしていたことにも納得がいく。
「植物が私で、それが、追いかけてくる……」
過去の記憶を思い返していくうち、彼女の頭の中にもう一つの光景が浮かんできた。寒い夜のなか、窓の外から突如として現れた制服姿の菫……。あの夜こそ、彼女が植物に乗っ取られる前兆ではなかったのか。
亜美を殺害した日、碧が変化に気づけなかったことを彼女はひどく嘆いていた。一人孤独に悩みを抱えていた菫は、心の隙をつかれて植物に精神を乗っ取られてしまったのかもしれない。
「どうして、気づいてあげられなかったんだろう……」
あの子を孤立させ、追い込んだのは自分たちだ。そう思うと、碧は後悔の念に打ちひしがれた。
「つい数時間ほど前に、僕らは彼女の遺体があった場所を掘り返してきたんだ」
「……掘り返した?」
航の口から唐突に出た言葉が、碧にはあまり快く響かなかった。死者の寝床を今さら荒らして何になるというのか。
碧の軽蔑するような眼差しを感じ取った航は、自らの足で調べ上げてきた内容について彼女に語り始めた。植物は新たな寄生体を求めており、それを放っておくとまた犠牲者が出かねない。
「じゃあ、赤い石を処分するために掘り返したってことですか?」
「そうだよ。遺体はすっかり白骨化していたが、植物の根のような痕跡は見つかった」
そこまで話して一度深呼吸をした航は、グラスを掴んだ手に力を込めた。「しかし、肝心の赤い石は見つからなかったよ。誰かが持ち去ったに違いない」
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