慎二 6月28日

第65話

 指名手配犯として、八十島の名前が報道されていた。


 診療所のテレビでニュースの報道を見た彼は、まるで夢でも見ている気分だった。 紺野をアパートで殺害した八十島はそのまま逃亡を図り、行方をくらませているようだ。


 彼に紺野の殺人容疑がかかってまもなくして、慎二の自宅を警察が訪れた。事情聴取で警察署に同行した慎二は刑事から取り調べを受けたが、事件には関与していないと判断されてすぐに解放された。


「先生、ひどい顔してますよ。今日は帰った方が良いんじゃないですか?」


「今日は予約の患者さんもいるから……」


 指名手配されたという報道から数日が経ち、とうとう八十島が捕まったというニュースが流れた。市内のホテルに潜伏していた奴は、紺野に続いて知り合いの女性も殺害したということだった。


 殺人の容疑者としてテレビに名前が挙がった直後もひどく不安にさせられたものだが、いざ逮捕されたという報道を見た慎二は激しく動揺していた。


「八十島、紺野……。一体、何があったんだ」


「先生、すいません。そういえば郵便が届いてたんでした」


 受付に戻った看護師は、慎二が診察室のデスクに腰かけるとしばらくして再び部屋を訪れた。


「郵便?」


 礼を言って封筒を受け取った慎二は、差出人の名前を見て目を見開いた。


「いつだ! これはいつ届いたものだ!?」


「えっと、ついさっき速達で……」


「さっき……?」


 看護師を追い払って慎二が封を切ると、中には一冊の手帳が入っていた。適当にページを捲ると間に挟まっていた一枚の写真がひらりと地面に落ちた。


 裏返しになったそれを拾い上げた彼は、ひっくり返した途端にまたも驚愕の表情を浮かべた。


「なんだ、これは……」


 見覚えのある赤い物体……。そこには無数の根が絡まり合っている。慎二は慌てて荷物をまとめ始めた。


「すまない。やはり今日は体調が優れないので、帰らせてもらうよ」


 慎二がそう言うと、受付の女性は次の患者の手配をしてしまったと言いながら困惑の表情を浮かべていたが、それには構わず彼は足早に診療所を後にした。


 ひとまず近くの喫茶店に入った彼は、端の席に腰かけて先ほどの手帳を鞄から取り出した。書かれた文字は非常に乱雑で、カルテに使用する作法をもじった暗号が所々に使用されている。


 何も知らない人間ならば読み解くことが困難なものであっただろうが、大学時代に友人たちと遊び感覚でこれらの文字列を使用してきた慎二にとっては何の問題もなかった。


 手帳には娘に関することが事細かに記されており、時系列にまとめられている。妻だけでは飽き足らず、卑劣なことに八十島は娘をホテルに連れ込んだようだ。


 言い訳がましい文章ばかりで慎二は途中から怒りを顕にしていたが、それでも先ほどの写真が脳裏に焼き付いてしまったせいか、読み進む手を止めることができない。


 紺野を殺した真犯人は菫だと? 夢の中の犯行……。こいつ、ふざけてるんじゃないのか。


 殺害された紺野の研究資料を持ち出してホテルに籠もった八十島は、菫に起こっている現象について突き止めなければ自分もいずれは殺されるだろうと綴っていた。


 後半は凄まじく文字が乱れ、走り書きのようになっているため非常に読みづらいものとなっていたが、内容を見る限りでも奴の興奮した様子が伝わってきた。


「夢の中に菫が? あの子に負わされた傷が現実に……」


 警察が部屋を調べた時、室内の備品や彼の私物がいくつか破損していたという報道を見たが、研究資料はすべて破棄したのだろうか。警察の元にデータが渡り、メディアに露出することを恐れて?


 次に眠れば確実に殺されると書かれた後、最後に二行ほどの文章で荒々しく書かれた内容に慎二は逆上して声を荒げた。


「植物に脳を支配されたなんて、そんなもの信じられるか!」


 読み終えた手帳から再び写真を取り出した慎二は、それを見つめながら不安な気持ちでいっぱいになった。彼は写真と手帳を鞄にしまって席を立つと、車に乗って自宅に戻った。


 菫はまだ帰宅していなかった。近頃は家を空けることが多く、帰りも遅い。一体どこで何をしているのか……。


 リビングのソファに腰かけてウイスキーを煽りながら一人考えに耽っていると、ちょうど扉の鍵を開ける音が聞こえた。慎二が玄関に向かうと、帰宅した菫は日曜日だというのに制服を着ていた。


「あら、パパ。今日は仕事じゃなかったの?」


「急に予約がキャンセルされてね。暇だから帰ってきたんだ」


「うわ、何!? ……とってもお酒臭いわよ」


 靴を脱いだ菫は廊下を進み、「私は部屋にいるから、ご飯ができたら起こしてよね」と言って階段を上り始めた。


 すれ違いざまに彼女から漂う、甘い香りには覚えがあった。それは死の直前に妻の身体から漂っていたものと全く同じ匂いだ。八十島の手帳によると、寄生された者の特徴として身体から甘い香りがするということだったが……。


「――菫、待ちなさい」


 階段を上る娘の後を追いかけた慎二は、二階に辿り着く直前で彼女の手首を掴んだ。


 手術痕は一体どうなっているんだ。まさか脳内に根が張っているなんてことが本当に……。紺野の奴が生きていれば、すぐにでもMRI検査を――。


 不意に娘の頭を押さえつけた慎二は、手術痕に変化は見られないか確認しようとした。


「嫌だ、パパ! 乱暴しないで!」


「いいから、見せなさい!」


 嫌がる娘の身体を無理やり壁に押し当て、動きが鈍った隙に長い髪を捲ると、手術痕として残ったほんの僅かな縫い目から緑色の芽が生え始めていた。


「う、嘘だろ? こんなことが……」


 何かの間違いだと思いたかった。彼はいっそ、芽を引き抜いてしまおうと試みた。


「いい加減にしてよ!」


 激しく抵抗を示した菫は首を振りながら彼を押し返したが、その拍子に階段から足を滑らせて一階の廊下まで転がり落ちた。


「菫……!」


 慎二が駆け寄ると、頭から大量の血を流した菫は目を閉じたまま呼吸を荒げていた。


 やがて呼吸が浅くなり、身体から力が抜けると、彼女は腕の中であっさりと息絶えてしまった。


「菫……。菫……」


 娘を抱き寄せた慎二は、血だまりの中で長い間蹲っていた。


「…………」


 妻に続いて娘まで失った彼は、もはや何をする気も起きなかった。いっそこのまま死んでしまおうか。そんなことを一人考えていると、彼女の身体が一瞬だけピクリと動いたように感じられた。


「菫?」


 脈を診るとやはり動いてはおらず、指先はすでに死後硬直が始まっている。気のせいだったかと彼が肩を落としていると、また同じように彼女の身体がビクンと動いた。


 よく見ると、血に塗れた頭部に見られる緑色の芽が僅かに動いていた。


「生きようと、しているのか……?」


 花は成長を続け、宿主の死に対して必死に抗っているように思われた。


 菫の身体を抱きかかえた慎二は全身を毛布で包むと、家の外にある車のトランクにそれを担ぎ込んだ。


 家の中に戻った彼は二階の部屋に行って血のついた衣服を着替えてから、車のキーを持って階段を降りた。一階の廊下には未だ血だまりがあったが、それは後回しでも構わない。


 庭では誰かに発見される可能性が高い。山の方まで車を走らせれば、どこか人目につかない場所が見つかるかもしれない。


 廊下の血を跨いで彼が玄関に向かうと、そこで呼び鈴が鳴った。


 のぞき窓から見ると、若い女のようだった。何度か呼び鈴を鳴らしたが、帰る気配はない。家の中で音を立てたことで在宅していることに気づかれたか。


 仕方なく扉を開けると、相手は菫の友人だと名乗る女子高生だった。娘を心配して訪ねてくれたようだが、今は一刻を争う。


 穏便に済ますべく彼は柔らかな口調を心がけたが、その女は気の弱そうな素振りを見せながらもしつこく娘について問いかけてきた。菫が男と出歩いているだと? そんなふしだらな娘に育てた覚えはないぞ、この小娘め!


 多少荒っぽく対応すると、女はそそくさと帰って行った。念のためしばらく待ってから車に乗り込んだ慎二は、途中でホームセンターに寄ってスコップと懐中電灯を買い、遠方に見える山を目指した。


 早くも日が暮れ始め、舗装路の限界まで走り終えた頃には周囲はすっかり暗闇に包まれていた。


 遺体を抱えてさらに奥まで歩き進んだ彼は、白樺に囲まれた地帯に着くとスコップで穴を掘り、その中に遺体を放り投げた。


 元通りに土を被せ、その場に跪いて祈るような仕草をした慎二は、車に乗り込んで来た道を戻った。

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