第64話
「夢の中で人を襲った話に関心を示しておられましたが、何か心当たりは?」
「夢ですか……」
それについて、彼はどこか懐疑的だった。
「私は実際に見たわけではないので、なんとも言えません。それが現実に起こりうるなどと、今まで信じたこともありませんでしたが、夢の中で菫に襲われたと話した友人がおりました」
「友人、と言いますと?」
「八十島という者です。そいつは七年前に殺人を起こし、懲役刑を受けております。殺害した相手は私たちの共通の友人で、紺野という男です」
娘の手術に関わったのがこの二人であることを続けて説明した彼は、机の引き出しから一冊の古びた手帳を取り出して航に手渡した。
中身を確認すると、走り書きでびっしりと文字が書き込まれている。特殊な文字列が使用され、意味不明な箇所が多々見られた。
「あなたにはこれの意味が分かるんですか?」
手帳に記された謎の文字列について航が尋ねると、「さぁ、私にも詳しくは分かりません」と彼は答えた。
大まかなところを読み進んだところ、夢の中で藤咲菫に襲われた八十島は、そこで殺害されたはずだと記している。これを読めば誰しも真偽のほどを確かめたくなるものかと航は思ったが、それを彼に尋ねたところ、慎二は自分の妻と八十島が不倫関係にあったことを語った。
「我々の友人関係はすでに破綻しておりました。菫の手術にどうしても彼の力が必要だったため術後はしばらくやり取りをして関係を保ちましたが、それも殺人を起こしたと知るまでのことです」
「では、彼が逮捕された後は一度も連絡を取られていないんですね?」
航の問いかけには答えず引き出しから真新しい封筒を取り出した慎二は、それを彼に手渡すと今年に入って八十島が仮釈放されたことを話してくれた。
「お話を伺いたいなら直接訪ねてみて下さい。問題を起こしていなければ、まだその住所にいるはずです。私はもう彼と会うつもりはありませんから」
「ありがとうございます」
手紙を受け取った航はそれを鞄にしまった。夢の中で襲われた話を聞ければ、藤咲菫について何か分かるかもしれない。
「それでは最後の質問です。藤咲菫さんの遺体はどこに埋めましたか?」
「遺体……」
言葉を詰まらせて俯いた彼は、またしても時間を置いた。やがて顔を上げると、どこか笑みにも等しい穏やかな表情を浮かべながら「それは警察にお話しますよ」と答えた。
「いつかは終わりにしなければならないと感じておりましたし、あなたが来てくれたことでようやくその決心がつきました。数日中に色々と事務処理などを済ませ、出頭したいと思います」
「そうですか……」
航は内心で疑っていた。七年も先延ばしにした彼が、本当に自ら出頭するだろうか。けれどその表情は思いのほか晴れやかで、嘘を言っているようには思えなかった。
手帳に書かれた情報は、恐らく八十島にしか解読できない。
「それじゃ、僕はこれで――」
航が腰を浮かせてそう言いかけた時、「遺体を埋めた場所にね、綺麗な花が咲いたんですよ」と慎二は言った。
「庭に咲いていた花と同じ種類でね、娘がよく水をやっていたのを覚えています」
「花?」
航は窓辺に立って外を眺めたが、この部屋からは庭を見ることができなかった。先日訪れた際に見かけた塀の黒ずみを思い出した彼は、「どんな花です?」と尋ねた。
すると慎二は顔を綻ばせながら小さく頷き、「何とも形容しがたい魅力を秘めた花ですね」と答えた。
「私にはそれが、娘に思えて仕方なかった」
「魅力、ですか……」
航がすぐに思い浮かべたのは、彼と出会った際に触れることを阻止されたあの花だった。強烈な甘い香りを放っていたことを記憶している。
あれほどまで花に人を近づけまいとしていたのは、そこに娘の遺体を埋めたからではないだろうか。花を一種の忘れ形見のように捉えた彼は、長年面倒を見ることで罪の意識と向き合っていたのかもしれない。
その時の航は、単にそんなことを思う程度だった。暗に遺体を埋めた場所を伝えることで自分が決して逃げ出したりしないことを証明したかったのだろうと解釈した彼は、そのまま席を立って藤咲宅を後にした。
だが今になって思えば、気がかりなことはあった。どうして遺体を埋めた場所に花が咲き始めたのか。庭に咲いていたものと同じだったのは、偶然のことなのか。
あの時、花の前に立った藤咲慎二の態度は少し妙だった。遺体の発見を恐れていただけにしてはあまりに反応が過敏だったのではないか。
何かを忘れている気がした。それをようやく思い出したのは、夢の中で碧と会話をした翌日、ホテルで目を覚ました時だった。
あの花は、一体何なのか?
その質問に対して、藤咲慎二は結局何も答えていない。
『――取り憑かれるぞ』
彼の口走ったその言葉はとても意味深に思われたが、藤咲菫を殺害したという話に注力するあまりすっかり失念していた。
なぜ彼が花の話を持ち出した時に思い出せなかったのか、それだけが悔やまれた。ひょっとしたらそれも、彼女の遺体が見つからないように彼が適当に放った台詞なのではないか。
そんな思考を繰り返すうち、航の中で再び彼のもとを訪れる気分は失せていった。どのみち八十島に会えば、すべて片がつくのだから。
「じゃあ、事件についての捜査はこれで終わりですか?」
考えに耽っていた航に向けて今井はそう言うと、安堵したように背もたれに身体を預けた。
「探偵になった気分で少しわくわくしましたけど、悲しい結末になっちゃいましたね」
「いや。もう一つだけ僕には確かめたいことがあるんだ」
珈琲を飲み干した航は、カップを置いて彼女を見た。「今井には協力してもらって感謝しているよ。あとは僕一人で何とかなりそうだから、君はもう会社に戻れ。あまり長く休むと有給がなくなっちまうぞ」
「先輩だって同じじゃないですか」
今井が不服そうに言い返すと、航は微笑みながら溜まった有給の日数には自信があると答えて胸を張った。
二杯目のアイスティーを荒々しく一気に飲み干した今井は、音を立てながらグラスをテーブルに置いた。
「……分かりました。私は会社に戻ります。でも、先輩が何をするつもりなのか教えてください。せっかくここまで付き合ったんだし、私には知る権利があると思います」
「やれやれ……。仕方ないな」
掴んだ伝票で頭を掻いた航は、八十島という人物に会いに行くつもりであることを今井に話した。理由は藤咲菫の手術の執刀担当だったことに留めたが、彼の名前を聞いた途端に今井は青ざめた表情を浮かべた。
「……殺人犯ですよね? ニュースで見たことありますよ」
「この町の人間なら知っていて当然か」
航は思わずカップに手を伸ばしかけたが、中身が入っていないことに気づいて引っ込めた。
「その人に話を聞いたら、この件は本当に終わりかもな」
「…………」
黙り込んだ今井は真剣な表情で航を見つめていたが、やがて大きく息を吐きながら立ち上がると、彼の手から伝票をひったくった。
「気をつけて行って来てください。一応ここは私の奢りということにしときますから」
「いやいや、後輩に払わせるわけには」
航が手を伸ばすと、彼女はそれを遮って笑みを浮かべた。「帰ってきたら、今度はお高いディナーを奢ってくださいね」
「お前はちゃっかりしてるよな」
航は店を出て彼女と別れると、八十島の暮らす住所を目指した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます