八十島 6月28日

第66話

 その日、八十島は朝から紺野のアパートを訪れていた。住まいの質にまるで関心のない紺野は、木造建てのボロアパートの一階に暮らしている。いい歳をした医者が住む環境とは到底思えないが、彼には彼の事情があるのだろう。


 菫とこれ以上の関わりを持つことに八十島は危険を感じていた。彼女の狂気にはおよそ周到さのようなものが備わっている。彼を誘う姿はもはや十代の幼気いたいけな少女ではなく、捕食者の目をしていた。


 このまま食い物にされ続けるのは勘弁だった。彼女の脳内に寄生植物の種が巣食っているというのなら、刺激しない方が身のためだということを奴にも分からせてやろう。正体を暴こうなど、死に急ぐようなものだ。


 呼び鈴を鳴らしたが、紺野は姿を現さない。留守かと思いその場を去ろうとしたが、ふと思い立ってベランダ側に回ってみると、カーテンが開いていた。


 窓に顔を寄せて中を覗き込むと、部屋の隅に横たわった紺野の姿が見られた。近くに酒の缶が数本転がっていることから、また深酒をしたのではないかと八十島は思ったが、その予想はすぐに裏切られた。


 よくよく見ると、身体を大の字にして仰向けになった彼の頭部には大量の出血が見られた。


「紺野!」


 窓を開こうと試みたが、鍵が掛かっている。庭先に転がった手のひら大の石を拾った八十島はそれを使って窓を割り、鍵を開けて中に入った。


 駆け寄って確認すると、彼はすでに息絶えていた。頭部には深い刺し傷の跡がいくつも見られ、出血の跡は乾いている。ひどく猟奇的な殺し方で、中から脳みその一部が流れ出ていた。


 拳を握って大の字に寝そべった彼の死にざまは、どこか異様だった。身体に触れると死後硬直が始まっており、頭部の傷に対して自ら手を触れたような形跡は一切見受けられない。これほどの傷を負いながら、なぜ抵抗しなかったのか。


「誰がこんなこと……」


 死に際に脱糞したのか、血の匂いとともに糞のような臭いが部屋中に充満している。室内を見回すと、机の上にはペトリ皿が置かれていた。昨日彼に聞いた通り、中央に置かれた赤い石の周りには根が張っている。


 培養液から拾い上げると、赤い石は僅かに脈打っていた。おまけに根の一本一本は弱々しいながらも自発的に動いている。


 気味悪く思えた彼は根をすべて引き抜くと、石をポケットに入れて机の上に置かれたノートパソコンを確認した。そこには赤い石に関する経過観察と、菫についての記述がまとめられていた。


「あいつだ。間違いない……!」


 ノートパソコンを抱えて部屋から飛び出た八十島は、アパートの前に停めていた車に乗り込んだ。奴に見張られているかもしれないという恐怖がつきまとい、アクセルを吹かした彼は猛スピードでその場を離れた。


「次はきっと、俺の番だ……」


 都心まで車を走らせた八十島は、数日分の宿泊費を先払いしてホテルの部屋に籠った。手元には奴の残した研究データと例の赤い石がある。ここに隠された謎を解き明かせば、助かる道が見つかるかもしれない。いや、探し出さなければホテルを出た瞬間にあいつが殺しにやって来るぞ!


「百合子の腹の中にも赤い石が? 一体いくつあるんだ……」


 データを読み進む八十島は、新たに気づいた点を追記していった。夢に関する記述については紺野自身も確証を得ておらず、様々な可能性ばかりが示唆されている。


「いい夢を見るから、何だって言うんだ」


 やがて彼は、紺野が赤い石を使って新種の精神安定剤を生み出そうとしていることを知った。あんなものを世に出せば、被害は甚大なものとなるだろう。


 ルームサービスでウイスキーのボトルを注文した八十島は、ちびちびと口に含みながら資料を眺めているうち、ソファでうたた寝をした。気づけばパソコンに向かって彼は研究を再開しており、背後では肩に手を添えながら共に液晶を見つめる菫の姿があった。


「今度はあなたが、研究を始めてしまったのね……」


 悲しげに呟いた菫は、肩に置いた手に力を込めた。爪の先が食い込むと、肉を抉って血が滲み始めた。「どうやって死にたい?」


「今に見てろ。俺が秘密を解き明かしてやる!」


「そう……」


 落胆したようにため息を漏らした菫は、いつの間にか手にカッターナイフを握りしめていた。それを振りかぶった彼女は八十島の脳天めがけて刃を突き立てたが、液晶越しに姿を捉えていた彼は、間一髪のところで躱すと席から離れて距離を取った。


「俺は紺野のように簡単にはいかないぞ」


 走り出した八十島は必死で足を動かしたが、思うように身体が進まなかった。まるで月面を進む宇宙飛行士のように一歩一歩が大股でのんびりとしている。


 背後を振り返ると、いつの間にかそこは密林に変わっていた。


 若かりし頃に憧れを抱いた、ジャングルクルーズの世界が再現された空間はあまりにリアリティを帯びている。付近で鳴リ響く動物や虫の声、身体にへばりつく湿った空気、裸足の足で踏む土の感触など、臨場感に溢れていた。


 背後から彼を追う制服姿の菫は、軽やかな足取りで距離を詰めた。逃げても無駄だと言わんばかりに笑みを浮かべた彼女が大きく飛び上がってナイフの先端を向けた瞬間、突然辺り一帯にスコールが降り始めた。猛烈な勢いで降りしきる雨は濁流となって身体を飲み込み、水中に飲まれた八十島は意識を失った。


「…………」


 猛烈な尿意を覚えて夢から覚醒した八十島は、薄っすらと記憶の隅に残った情景を自身の手帳に書き留めた。


 ホテルの部屋、パソコン、菫、紺野を殺した……。カッターナイフ。走るのが遅い、ジャングル、スコール……。


 肩に痛みを覚えて立ち上がった彼は、鏡の前に立って自身の姿を眺めた。衣服には血が滲み、服を脱ぐと爪の刺さった跡がくっきりと残っていた。


「……何だこれは!」


 八十島はすぐさま洗面所に駆け込んで顔を洗ったが、頭がずっしりと重い。部屋に戻ると、床の上には空になったウイスキーの瓶が転がっている。


「あれは夢だったはずだ……」


 机に向かった彼は、先ほどの体験を踏まえて思いつく限りの推論を手帳に記述した。自身が寝ぼけて傷をつけたのか、それとも夢で起こったことが現実に……?


「夢……。そうか! だから紺野は無抵抗のまま……」


 馬鹿馬鹿しいという気持ちが大半を占めていたが、それでも万が一に備えて八十島は眠ることを自身に禁じた。もしもこの理論が正しければ、次に眠った際には確実に息の根を止められてしまう。


「やられる前に、何か対抗策を……」


 ずっしりと重たい頭に苦しみながら、寝ずに明かした朝が二度続いた。手帳を持ってホテルの部屋から出た八十島はその足で郵便局を訪れると、指定の住所に手帳を送りつけた。


 郵便局から出た八十島は、太陽の光に意識が朦朧とした。過度の寝不足で貧血を起こしたに違いない。


「……危ないところだったぜ」


 身体を引きずるようにして部屋に戻った彼は、ある番号に電話をかけた。数コール鳴ったのち、相手は電話に出た。


「もしもし、宏美か」


 素早くホテル名を告げた彼は、すぐに駆けつけるよう彼女に言った。


「こっちにも都合ってものがあるんだけど。夜には旦那が帰って来ちゃうし」


「友達の家に泊まるとでも言えば良いだろ」


 弱々しく八十島が言い返すと、宏美は心配するように「何か元気ないね」と言った。「私のこと誘ってる場合なの?」


「とにかく、来てくれないか。頼む」


 通話口の向こうからは、深いため息を漏らす音が聞こえてきた。


「……分かったわよ。着いたら連絡するから、部屋開けて」


 それから数十分か、数時間か。半ば意識を失いかけていた八十島は部屋のベル音に気づくと壁に凭れて座り込んでいた身体を何とか持ち上げた。


 扉を開くと、廊下に立った友人の宏美は思いのほかめかし込んでいた。


「入れよ」


 八十島に招かれて室内に入った宏美は、大人びた香水を纏っている。彼女はその気になってやって来たものの、部屋の惨状を見るなり気分が失せていくのを感じた。机の上には栄養ドリンクの空瓶が並び、ごみが散乱して不快な臭いを漂わせていた。


「うそ、仕事してんの?」


 宏美が床の上に転がったごみを拾いながら顔を覗くと、頬がげっそりと痩せこけた八十島は目の下に隈ができていた。「顔色悪いよ、ちゃんと寝てる?」


「もう何日も寝ていない」


 八十島は壁に凭れて座り込み、「実は君にお願いがあるんだ」と言った。


「病人相手に抜いてくれなんて言われるのは、ごめんだけど」


「違う、そうじゃない!」


 八十島は香水の匂いに思わず吐き気を覚えつつ、「俺がこのまま眠ってしまわないよう見張っていてほしいんだ」と言った。


「眠った瞬間に、俺は死んでしまうだろう」


 冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した宏美は、彼の前に屈んでそれを差し出した。「むしろ寝不足で今にも死にそうに見えるけど」


「頼むから、俺が意識を失ったらすぐに叩き起こしてくれ!」


 彼は乱暴に水を受け取り、「信じられないかもしれんが、俺は夢の中で命を狙われているんだ」


「あんた、寝ぼけておかしくなってんじゃない?」


 八十島の額に手を当てた宏美は、あまりに真剣な表情で見つめてくる彼に思わず息を呑み、「見張るだけでいいの……?」と言った。


「あぁ、そうだ。ルームサービスも好きなだけ頼んでくれていい」


 彼の言葉に呆れて肩を竦めた宏美は、「……分かったわよ。よく分かんないけど、今日だけ付き合ってあげる」と言ってベッドに腰かけた。

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