第67話

 宏美が訪れてから数時間。八十島は荒波となって襲いくる睡魔を振り払いながら、ぽつりぽついりと赤い石について語りだした。海洋学者である宏美はそれについて非常に興味を持ち、自分も見たいと強請ねだったが、机の上のそれはすでに枯れ果てており原型を留めていなかった。


「どうして死なせちゃったのよ、サンプルが台無しじゃない!」


 彼女の言葉を鬱陶しそうに躱しながら、八十島は眠気が最高潮になる夜の時間を迎えていた。声をかけ続ける宏美にも徐々に疲労の色が見え始め、洒落にならない空気に怯え始めた彼女は「これって結局、あんたのデータを誰かが狙ってるってことなの?」と言った。


「ここに来たりしないわよね?」


「来るさ。奴は俺が眠るのを待っている。だが、弱点は見つけた。あとはあの男が協力してくれれば俺は助かるかもしれん」


「さっぱり訳が分かんないんだけど……」とぼやく宏美の声を聞きながら、八十島は考えに耽った。


 慎二のそばではあいつが見張っているかもしれん。迂闊に電話連絡を取るわけにはいかない。あの手帳には細工を施したが、奴なら問題もないはずだ。連絡が来ればすぐでにも合流し、協力して事に当たろう。問題は娘を葬るだけの覚悟が奴にあるかどうか……。紺野もいない今、最悪の場合はこのまま宏美に――。


 顔を上げると、目の前に宏美の姿がなかった。不意に背後から目隠しをされた彼は、一瞬のうちに水中へと引きずり込まれた。


 まずい、殺される……!


 溺死に怯えて暴れまわる彼だったが、気づけば息苦しさは消え、ベッドに横たわっていた。


 なんだ。やはり眠ってしまったのか。けれど、すぐに目が覚めて良かった。


 そう思ったのも束の間、ベッドの周囲に張られた天蓋が目に入った彼は、途端に冷や汗を流し始めた。


 シャンデリア、絵画、骨董品……?


 室内はまるで映画に登場するお姫様が寝起きするような環境に思われたが、そこには場違いなほど植物が生い茂っていた。


 慌てて彼が起き上がろうとすると、手足がベッドに縛りつけられていた。


「ひ、宏美……!」


 声を張り上げて彼女を呼びつけたが返事はなく、何かが地面を這うような音が轟いている。菫に襲われることを予期した八十島はベッドの上でもがいたが、やがて不気味に壁を這う植物が視界に入った。天井から垂れ下がったそれは、少しずつ彼に近づいていく。


「やめろ……! く、来るな!」


 一方で菫は、自身の夢に八十島を監禁したのちに彼の夢を訪れていた。壁一面に本棚が並ぶ書斎には中央に場違いな大木が生えており、緩やかな速度で紙片を舞い散らせている。記述された内容はほとんどが死に対する恐怖心だったが、時おり菫や百合子、赤い石に関する記載も見られた。


「あの男のパソコンを持ち出したのね」


 アパートを物色した際に研究資料が見つからなかったことから、八十島の仕業であることはすぐに分かっていた。彼の夢に侵入することができた今、このまま始末してしまっても構わなかったが、データを破棄するためには居場所を探る必要がある。


 机の引き出しを開くと、中には一冊の聖書が入っていた。どこかにホテル名が書いてあればと思いつつ菫がそれを持ち上げると、すぐ下にメモ用紙の束があった。隅の方にはきちんとホテル名が印字されている。


 口元を緩めた彼女はその名を記憶し、引き出しを閉じた。


「これで、あの人も用なしね……」


 菫が扉の方を振り返った瞬間、突然地面が激しく揺れ始めた。八十島の覚醒を予感して彼女が身構えると、瞬きをする間に視界が切り替わった。


「あっ、起きた。……大丈夫?」


 見知らぬ中年女が、至近距離で顔を近づけている。バスローブ姿に濡れた髪をしたその女は、シャンプーの匂いを漂わせていた。


「良かったね、まだ殺されてなくて」


 身体が異様に重く、頭がぼんやりとしている。女はグラスに入った水を一口飲むと、それを自分の方へと差し出した。


「やっぱり、ずっと起きてるなんて無理なんじゃない? 本当に死んじゃうよ」


 グラスを受け取った手はごつごつとして大きく、皺が多く見られた。慌てて立ち上がった菫は、鏡の前に立って自身の姿を眺めた。よく見るとそれは八十島の顔で、老け込んだ姿に彼女はショックを受けた。


「何よ、これ……」


「ねぇ、私なりに考えてみたんだけど、やっぱりその研究は世間に公表した方がいいと思うの。上手く活用すれば化学の進歩にも繋がるし、何よりこんなにおいしい話はないでしょ。良ければ私の研究施設を提供してもいいわ」


「公表……?」


 菫が片手に持っていたグラスを強く握りしめると、それは音を立てて割れた。破片が指に刺さり、痛みと共に血が流れ始めている。


「ちょっと、何やってんの!」


 慌てて地面に散らばったガラス片を拾い始めた女を見下ろしながら、菫は先ほどの発言が気になっていた。


「殺されなくて良かったって、どういう意味?」


 自身が男の声を発していることに不快感を覚えつつ菫が尋ねると、破片を割れたグラスの大元の部分に拾い入れた宏美は「あなたが言ったんでしょ。寝たら夢の中で殺されるとか何とか」と答えた。


「でも、やっぱり冗談だったのね。私がシャワーを浴びてる間にあなたは眠っちゃってたけど、どう見ても死んでないし」


 破片を拾い終えた宏美が顔を上げた瞬間、彼女を押し倒した菫は両手で首を絞めた。呻き声を上げながら必死に抵抗を示す彼女は手の甲を爪で引っ掻いたが、やがて力尽きると地面に両手を落としてそのまま動かなくなった。


 息を切らせて彼女を見下ろしていた菫は机の前に移動するとノートパソコンを掴み、机の角にぶつけてそれを破壊した。レポート用紙に走り書きした資料はまとめてごみ箱に放り込み、ライターで火をつけてすべてが灰になるまで見届けた。


「……これで全部かしら」


 ひとしきり資料を燃やし終えた菫は机の上に残った物体をちらりと見遣ったが、すっかり干からびたそれがまさか赤い石だったものだとは思いもしなかった。


「それにしても、この身体は一体どうなっているの?」


 ようやく自身の身に起きたことに思考が向いた彼女だったが、不意に眩暈を起こして地面に倒れ込んだ。まるで身体が吸い込まれるように意識が失われていく。


 次に目を開いた時、彼女は八十島の夢の中にいた。本棚で埋め尽くされた書斎の中央には先ほどと同じように大木が見られ、無数の紙片が舞い散っている。


 身体を見ると、美しい少女の姿に戻っていた。書斎を後にした菫はキッチンを見つけてシンクに水を溜めると、自身の夢を目指して泳いだ。


 お気に入りのベッドの上には薄汚い中年の男が横たわっていた。


「……はっ! 身体が、もとに戻ってる」


 気絶していた八十島の頬にカッターナイフの刃を当てると、目を覚ました彼は菫の姿を見て悲鳴を上げた。


「ひっ! やめろ、やめてくれ!」


 先ほどの体験がおよそ不可解ではあったものの、自分の夢に異物が存在していることにもはや我慢がならなかった菫はカッターナイフで八十島をめった刺しにした。蒸発するようにその場から彼が消えていくのを確認した彼女は、血まみれのベッドに横たわった。


「ようやくは、自由を手に入れることができたのね」


 不気味にうごめく植物と戯れながら眠気を覚えた彼女は、目を閉じて寝息を立て始めた。薄暗がりの中で覚醒した彼女は、鏡の前に立つと安心したようにため息を漏らした。


「ほんと、何だったのかしら」


 先ほどの出来事は果たして夢の世界で行われたものなのか、現実で起こったことなのか。彼女は咄嗟に見知らぬ女を手にかけてしまったが、本当にあれは死んだのか。


 彼女が考えを巡らせている間に、寝室には朝日が射し込み始めた。急いで外出の支度をした菫は、記憶を頼りに八十島が宿泊中のホテルを目指した。

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