碧 6月28日

第62話

 紺野のアパートを訪れた碧は、警察車両が数台停まっているのを見てぞっとした。彼と話していたことが、やはり現実となってしまったのか。


 アパートの入り口には黄色いテープが引かれ、現場に近づくことはできなかった。塀の外からちらりと伺えたのは、ベランダ側の窓が割れていることくらいだった。


 あの場所がおそらく紺野という男の部屋だろうが、あまりじろじろ見ていても警察に怪しまれるばかりなので碧はすぐさまその場を後にした。


 報道で事件についての情報を得た碧は、容疑者に八十島という名前が浮上していることを聞いてまたもや驚かされた。航が話していた内容と完全に一致した展開を迎えている。警察は八十島の行方を追っているようだが、捕まるのは時間の問題か。


 数日経って、八十島が逮捕されたという報道があった。警察に連行されている彼の姿を見た碧は、その男が亜美の通夜の日に菫を連れて車に乗った男と同一人物だったことを知った。


 八十島は都心に自身の所有する病院を持つほどの裕福な男だったが、妻子はおらず、院内の女性に手を出すことも少なくなかった。軽薄極まりない男に碧は嫌悪感を示したが、あの日菫を迎えにやって来た彼はひどく暗い顔をしていた。


 なぜ父親ではなく、八十島があの場に来ていたのか。藤咲慎二の妻と不倫関係にあったという彼に娘を預けるような真似を父親がするとは思えないが、二人には何か接点があったに違いない。


 彼は未来の八十島と接触できただろうか……。


 夢の中で航の姿を求めて水に潜るも、ここ数日は光の糸が現れない。いつでも行き来ができるわけがないだけに、碧は歯がゆい思いがした。


 亜美が亡くなって以来、菫は学校に姿を現していない。八十島と共に行動していたのだとすれば、今頃はどこで何をしているのか。


「菫ちゃん……」


 いずれ菫が失踪すると航は話していた。それは一体いつなのだろう。菫がきちんと家に帰っているのか、その辺りだけでも探ってみようか。


 普段着に着替えて外出をした碧は、歩いて菫の家を目指した。


 菫の自宅は周囲の家々に比べて敷地が広く、建物もひと回りほど大きい。玄関の手前にある駐車場には車が停まっていた。以前に父親が車で仕事先に向かうと聞かされていた碧は、藤咲慎二が在宅しているのではないかと思い呼び鈴を鳴らした。


 扉の向こうで何か物音がしたものの、誰も出てこない。続けて二度呼び鈴を鳴らすと、玄関の扉が僅かに開いて隙間から男が顔を出した。


 色白で顔色の悪いその男は、目が血走っていた。


「何か?」と尋ねるその声は、どこか冷ややかだった。身体からはほんのりと酒臭さが感じられる。


 この人が菫の父親……。


 外見は温和そうだが、どこか神経質な気配は菫と少し似ている。彼女の頭の中に訳の分からないものを埋め込んだという話は、本当なのか。


「えっと……、菫さんのお友達で、沢渡碧と申します。菫さんは御在宅でしょうか?」


「…………」


 藤咲慎二は、彼女の全身を舐めるように眺めた。まじまじと見つめられた碧はどこか居心地の悪い気分になったが、表に出て玄関の扉を閉めた彼は「菫なら、今は外出しているよ」と答えた。


 心なしか口調が柔らかなものになったことで安心した碧は、「最近学校にも来てないみたいなんですけど、何かあったんでしょうか?」と続けて尋ねた。


「何てことはないよ。よく体調を崩す子だからね。大事を取って休ませているんだ」


「体調を崩しているのに、今は外出してるんですか?」


 碧が素朴な疑問をぶつけると、藤咲慎二はどこか苛立ったようにため息を漏らした。「いつまでも部屋に籠らせきりだと、あの子も気分が落ち込むからね。好きな時に外出して良いと言ってあるんだ」


「……そうですか」


 彼の苛立ちを敏感に感じ取った碧は、少し気まずさを覚えつつ「行き先なんか、分かったりしませんよね」と言った。


 すると再びため息を漏らした彼は、「あまり縛りつけるような真似はしたくないんだよ」と、今度はあからさまにうんざりした表情で答えた。


「もういいかい? 私も忙しいのでね」


 扉を開いて彼が中に入ろうとすると、中から嗅いだことのある匂いが漂った。それは菫と至近距離で見つめ合った際にもよく感じられた、甘い香り。


 彼女の自宅ゆえ、それくらいは不思議ではないのかもしれないが、父親からはその気配を全く感じなかった。


「本当に菫ちゃんはいないんですよね? 何日か家を空けたりしたことはないですか? 誰か男の人と会っていたなんてことは?」


 碧が続けざまにそう言うと、途中で激しく扉を叩いた彼は「だから、菫は外出していると言ったろ!」と凄んだ様子で答えた。


 思わず肩を強張らせた碧は泣きたくなるほど恐ろしかったが、家の中を隠すような彼の動きが気になって扉の向こうを覗き込こもうとした。けれどその瞬間、視界を塞ぐように前に立った彼は大きく鼻息を鳴らし、「勝手に入ろうとするんじゃない!」と怒鳴った。


「ご、ごめんなさい……」


 父親が酔って帰った時と同じ臭いがして碧が顔をしかめていると、「失礼するよ」と答えた藤咲慎二は扉の向こうに消えていった。


 玄関の前に一人取り残された碧が視線を庭先に向けると、塀の一角に焼け跡が見られた。よく見るとそこは菫が花に水を遣っていた花壇で、花がなくなった空間はどこか寂しげに思えた。


 死に際の亜美の姿が頭に浮かんできて吐き気を覚えた碧は、花壇から目を背けるとそのまま藤咲宅を後にした。

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