第61話
その晩、自室で床に就いた菫は皮脂汚れのように汚らしい場所に辿り着いた。壁や床にはべたつきがあり、地面にはヘドロのような物質が散らばっている。
これが彼の深層心理、コンプレックスの投影か……。環境の乱れは日毎に精神状態が悪化していることを物語っていた。
彼女は一刻も早くその場を立ち去りたいと思いつつ、カッターナイフを手に対象を探し歩いた。
曲がりくねった薄暗いその道は、ぬめぬめとした質感のトンネルを思わせた。彼女は内視鏡のスコープで奴の食道を通り抜けている気分だった。
光の漏れ出た扉を開くと、そこは理科室のような匂いがしていた。
顕微鏡、フラスコ、スポイト……。
机の上には見覚えのある備品類から名も知らぬ器具まで、多岐にわたるものが乱雑に配置されている。壁際の薬品棚を眺めながら歩いていると、彼女は地面に伸びたケーブルに足を取られそうになった。
器具はすべて油汚れに侵され、およそ使い物にならない。机に突っ伏して顕微鏡を覗き込む紺野は白衣の袖で覗き口を拭っていたが、汚れは決して消えることがなく、その度に舌打ちを繰り返していた。
「順調かね?」
紺野が振り返ると、背後に小太りな男が立っていた。頭髪が薄く、身の丈を覆うほどの白衣を纏っている。この空間の油汚れの元凶と思われるそいつは、全身が油で覆われていた。
「結果が出れば、君もすぐに教授だ」
男が紺野の肩に手を触れるとそこからみるみる湿ってゆき、茶色く変色していった。
「はい! もうじき成果が出せそうです!」
「そうかそうか」
油をまき散らしながら相槌を打った男は、にたりと笑いながら紺野に顔を近づけ、「今回のその論文に関してなんだが、学会では私の名前で提出することに決まったのでね」と言った。
「その方が、注目も集められるだろう」
「ですが、この研究は長年僕が一人で――」
「嫌なら、いつでも研究室を出て行ってもらって構わんよ?」
薄汚い笑い声を漏らして男が歩き去った道には、新たなヘドロがこびりついていた。
「くそっ!」
研究室で一人になった紺野は、机の上に拳を叩きつけた。粘り気のある液体が宙に飛び散り、彼の眼鏡にもそれが飛散した。
悪態をつきながら白衣の裾で眼鏡のレンズを拭った彼は、そこで部屋の隅に立つ菫の存在にようやく気がついた。
「菫ちゃん、今日も来てくれたのか!」
歓迎するように両手を広げた紺野は、続いて奥にあったヘドロまみれの診察台を指さしながら「ここに寝てくれ。君の脳の仕組みを研究すれば、僕はこんな場所から抜け出すことができる」と言った。
無言で笑みを浮かべる菫は、後ろ手に組みながらゆっくりと歩き始めた。途中でヘドロを踏みつけて顔をしかめそうになったが、彼女は表情を崩さず期待に満ち溢れた紺野の瞳を見つめ返した。
「研究を辞めるつもりはない?」
残り一メートルにも満たない至近距離まで彼に近寄った菫は、白衣に着いた汚らしい皮脂汚れを眺めた。紺野は鼻で笑いながら「もちろんさ」と答えた。
「さぁ。君の力を貸してくれ。いずれ僕はこの研究を世間に発表し、独立して自分の研究室を作るつもりだ。そうすれば、あんな狸親父の下でこき使われることもなくなる。そう、教授だ! 僕は有名になるんだよ。そうなればやりたい放題さ」
菫が黙って見つめていると、彼の姿は徐々に油でまみれていった。それは彼の体内から発生され始めているようだった。指先には茶色く滲んだどろどろの物質が滴っている。
「先生……」
彼の耳元に顔を寄せた菫は、鼻につく匂いを我慢しながら片腕で彼を抱きしめた。「あなたって、野心家で素敵」
その瞬間、紺野の目元に鮮やかな赤い色の血液が垂れ始めた。それは顎を伝い、彼女のワイシャツに垂れて赤い染みを作った。
「……なんだ。血の色は綺麗なのね」
「な、なにをするんだ!」
血に塗れたカッターナイフの刃を眺めていた菫はそれを再び紺野のこめかみに当てると、素早く横滑りさせた。
紺野は言葉にならない悲鳴を上げ、身体を痙攣させながら診察台に倒れ込んだ。
菫は彼の四肢に素早く拘束具を巻きつけ、ベッドに固定していく。
「何って、――手術だけど?」
身体を必死に動かそうともがく彼を見下ろした菫は、ナイフの刃を何度も頭に刺し込んだ。
彼の体内からは綺麗な赤い血が大量に溢れ、汚れた診察台を浄化していく。
やがて彼が静かになると、周囲の空間が輝き始めた。机や薬品棚、診察台が順に蝋燭のように溶け落ち、深緑の雪が花びらのごとく舞い散っている。
目を覚ました菫は、直前まで嗅いでいた臭いが鼻に残り、不快な気分だった。
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