第六部

紺野 6月27日

第60話

「こ、これは……!」


 自室にて極秘に研究していた赤い石のサンプルを見て、紺野は驚愕の声を漏らした。培養液につけた本体からは無数の根が伸び、それらが絡み合いながらペトリ皿の中いっぱいに広がっている。中央に位置する赤い石はわずかに脈打ち、時おり淡い光を放っていた。


「こいつは……、種だったのか」


 彼がもう一つの赤い石を発見するに至ったのは、藤咲の自宅で放火があったと聞かされた翌日のことだった。ただのボヤ騒ぎだと慎二は話していたが、念のため様子を見に訪れた紺野は被害に遭った庭の一角を眺めていた。


 植物の残骸はおおかた取り除かれ、塀には黒い煤が残っている。もしや赤い石を埋め込んだ影響で菫が引き起こしたのではないかと彼は勘繰ったが、慎二が言うにはその可能性は低いとの事だった。


「珈琲でも淹れようか」


 慎二が室内に戻り、紺野が続いて庭から去ろうとした矢先、彼は土の中に薄っすらと赤く光るものを見た。掘り起こすとそこには、菫の脳内に埋め込んだはずの赤い石があった。これは、同じ赤い石の別物か……。


 紺野はポケットの中に赤い石を忍ばせると、誰にも言わずにそれを持ち帰った。


「このサンプルと同じことが菫ちゃんの脳内で起きているのだとしたら……。大変な事態になるぞ!」


 紺野はこの事実をすぐに慎二に伝えるべきか迷っていた。なぜなら赤い石のサンプルがもう一つ存在することは彼だけの秘密であり、恐ろしい姿へと変貌を遂げたこれを慎二に見せるのはあまりに酷だった。


 成長した根が脳内に入り込んでいれば、完全なる除去は恐らく不可能……。


「…………」


 いや、まだ間に合うかもしれない! 脳まで根が達していなければ何とかして切除することは可能だろう。彼女が脳内に帯びていた電磁波は、実は根を引き寄せるための電気信号だったのか? 今となっては、藤咲百合子が赤い石を自ら飲み込んだという話からもその可能性は高いように思われた。


「中和抗体なんかじゃない……。僕らはひどい勘違いをしていたんだ」


 脳内に根を侵入させることが、真の目的か。「こいつは新種の寄生植物かもしれないぞ!」


 根が脳内にまで到達してしまった場合、対象はどうなってしまうのか。慎二は彼女の行動を逐一記録していると話していたが、やはりまずは脳の状態を確認すべきだ。


 携帯電話を手にした紺野は、菫に直接連絡を取った。脳内の状況を知るためにはMRI検査が必要である。定期検査だとでも言って来てもらえばいいだろう。


 執刀担当の八十島にも連絡を取らなければならない。早ければその晩にでも手術をしてもらうことになる。その際はさすがに慎二にも黙っておくわけにはいかなくなるか。


 紺野が様々なことを脳内で思い描いている間に、電話の相手は応答した。


「紺野か。どうした?」


「その声……、八十島?」


 動揺してかける相手を間違えただろうか。「今は一人か? 病院にいるのかな?」


「いや。菫ちゃんの友人に不幸があってな、葬式の送り迎えをしてやってたんだ」


「お前が?」


 やはり菫の携帯電話で間違いない。「彼女は今、近くにいるのか?」


 紺野の質問に対し、八十島はしばし間を置いた。やがて彼はため息を漏らすと「今は席を外してる」と答えた。


「トイレにでも行ったんじゃないかな。携帯電話を車内に置き忘れていったもんで連絡は取れないが」


 それなら、むしろ好都合だ。


「八十島、お前に話があるんだ。このことは慎二にもまだ話していない」


 紺野は赤い石のサンプルについて、八十島に状況を説明した。近く手術になるかもしれないことを話すと、前回の手術が乗り気でなかった彼は意外にも前向きな姿勢を見せた。


「彼女をこっそり病院に連れて行く必要があるな」


 八十島は要領を得たようにそう言うと、「それに関しては、俺に任せてくれないか?」と続けた。


「検査があるとか言ってお前の病院に連れて行けばいいんだろ?」


「おぉ、そうしてくれるか!」


 紺野は心強い味方を得た気分だった。「助かるよ」


「念のため聞くが、この話はまだ俺以外にはしてないんだな?」


 八十島にそう問われた紺野は、すぐさま肯定した。「慎二にはもう少し状況が分かってから話した方が良いだろう。無駄に心配をかけたくはないからな」


「はは。違うだろ、紺野。お前は赤い石を勝手に持ち去ったことを慎二に知られたくないだけだ。あいつは怒ったら本当におっかないからな」


「……経験者は語るか。参ったな。くれぐれも内密に頼むよ」


「それはむしろ俺の台詞さ。手術のことが世間にバレたら、俺たちの人生は終わりだ」


「分かってるよ。こんな世紀の大発見を人前に公表できないのは正直悔しくて仕方ないがね。それじゃ、なるべく早く彼女を病院まで連れて来てくれ」


「了解」と言って通話を終えた八十島は、スピーカーフォンにしていた携帯電話をポケットにしまいながら助手席に腰かけた菫を見た。


「……こんな感じで、良かったか?」


 菫はエアコンの温度を下げ、風向きを操作していた。


「どうしてこうも冷えにくいのかしら。暑くてたまらないわ」


「なぁ、これで手術のことは黙っといてくれるよな?」


 八十島は懇願するように菫を見つめた。彼女は雨に濡れた衣服を扇ぎ、エアコンの送風口に顔を近づけている。


「早く出してよ」


「おいおい、そりゃないぜ」


 額の汗を拭った八十島は、言われるまま車を発進させた。「君が言った通り、俺が君の頭を掻っ捌いて気味の悪い石を植えつけたことは認めるが、何度も言うようにあれは脅迫されてやったようなもんなんだよ」と言った。


「脅迫されたら何でもやるの?」


 冷ややかに言い放った菫は、スカートの裾を捲りながら足を組んだ。


「手術をされている時、その一部始終を見ていたのよ。あなたが楽しそうに身体を眺めていたのも覚えているわ」


「そんなはずないだろ。君の身体には全身麻酔がかかっていたんだ。覚えているわけがない。それに紺野が赤い石を研究してるなんてこと、君はどうやって知ったんだ?」


「忠告しとくけど、あの人はいずれ研究結果を論文にまとめて発表する気よ」


 菫は静かにそう答えると、口元に笑みを浮かべ、「あなたがママと関係を持っていたことも知ってるんだから」と言った。


「私に隠し事なんてできないのよ」


「……くそ。慎二の奴、娘にまで話すことないだろ」


 八十島が煙草を口に咥えると、それを見た菫は彼を鋭く睨みつけた。「やめてよ、そんな身体に悪いもの!」


「君には関係ないだろ」


「関係あるわ。子供に影響があるじゃない」


「子供だと!?」


 驚いた八十島は、慌てて路肩に車を停めた。その台詞は前にも聞いたことがあった。不気味なほどに積極的だった彼女……。それと重なるように彼の太腿をなでた菫は、「どうして勝手に車を停めてしまうの?」と言って上目遣いに眺めた。


 彼には予感があった。あの時の彼女と同じ、狂気にも近い性的欲求。学生時代からよく知る清楚な佇まいの彼女からはおよそ考えられない淫乱さ。それと同類のエロスを、目の前の少女は剥き出しにしている。まるで自分が生贄にでもなった気分だった。


「二人で楽しみましょうね」


 カーナビを操作し始めた菫は、ひときわ妖艶な笑みを浮かべている。


 無言でアクセルを踏み始めた八十島は、あの日の光景が脳裏にこびりついていた。いざ行為に及ぶ直前、突然狂ったように暴れ回った彼女はやがてルームサービスの配膳台に乗っていたナイフを掴み、自身の腹部に向けてそれを力一杯に刺し始めた。


 その時の彼女はどこか怯えたような、それでいてなぜか清々しい表情を浮かべていた。


「食われて、やるもんですか……」


 それが藤咲百合子の最後の台詞だった。彼に向けた言葉なのか、はたまた何か別の意味を含んでいたのか。


 今になってようやくその意味を理解した八十島はすぐさま逃げ出したい気分だったが、秘密を暴露されることを恐れて言うことを聞かざるを得なかった。


 それどころか彼は、少女の放つ圧倒的な艶やかさを前に抵抗の意思を示すことはおろか、溢れ出る欲情を抑え込むことすら出来なくなっていた。

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